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第一話 妖し沼の常夜の鬼
幼い頃の思い出と言えば、夏休みに祖父母の実家に向かい、買ったばかりの新しいスケッチブックに絵を描く事だった。
都会では、あまり見る事の無い種類の花や木を観察して描いたり、庭に遊びに来た小鳥達を可愛くデフォルメするのが好きだった。
祖母の実家でも、親戚の子やご近所と遊ぶ事もあったが、内向的なくるみにとって、活発にボール遊びをしたり、ネットでゲームをするよりもどちらかと言うと、こうして絵を描いている一人の時間のほうが、楽しく感じられた。
将来は、イラストレーターとか絵本作家になりたいなとぼんやりと考えていた、中学一年生のある日の事。
「くるみちゃん、あんまり遠く行ったらアカンよ! 裏山の方には入らんようにねぇ」
「うん、わかった! お祖母ちゃん行ってきます」
くるみはスケッチブックを持つと、色素の薄いくせ毛を二つに結び、蝉がミンミンと鳴く家の前の森の小道を自転車で通り抜け、田園風景を眺めていた。
キャンパスも、今年でもう6冊目になる。両親とも共働きの一人っ子なので、夏休み中ずっと祖父母の家に自分一人出向いて、写生したり秘密の場所やお店を探したりするのが楽しい。
キュロットスカートにTシャツ姿のまま、都会よりも日差しが柔らかく、夏の風が心地よく感じられた。
「あれ、なんだろう……あんな所に道なんてあったかな?」
くるみは、見慣れない小道を見つけて思わず自転車を止めた。ちょうど自転車が一台通れそうな道で、この奥になるのか確かめてみたいと言う好奇心に狩られた。
途中で、山へ登るような斜面などがあったら引き返そう、この奥に良い場所があるなら少し絵を描こうと思い、小道の入り口に自転車を置くと木漏れ日の注ぐ小道を歩き始めた。
暫く歩いていくうちに、蝉の鳴き声が全く聞こえない事に気付いた。景色は相変わらずのどかで美しい森の風景なのに、なんだか異質な感じがして、くるみは胸騒ぎを感じた。
そのうち、朝靄のような霧があたりに立ち込め、その悪い予感は当たっていたのだと確信する。
「どうしよう……、引き返してるつもりだけど、本当にこの道で合ってるのかな。不安になってきちゃった」
こんな時に限って、携帯を居間に置いてきたので本当にタイミングが悪い。不安にかられて辺りを見渡していると、神社の巫女が使う神楽鈴のような鈴の音が聞こえて、誘われるかのように、そちらに進んだ。
――――シャン。
――――シャン。
――――シャン。
草むらの影から、鮮やかな真紅の沼が現れた。こんな大きな沼なら、誰もがその名前を口にした事があるんじゃないかと思うくらいだ。
血のように紅い、と思っていた沼は真夏にも関わらずあたり一面の紅葉が水面に鏡のように映って真っ赤に染まっている。
その沼の水面の上で、青黒のグラデーションの長い髪を結い上げた紅い肌襦袢を着た白の着物に派手で艶やかな着物を着た男性が立っていた。
その額には二本の真紅の角、銀色の瞳に生きている人間には思えないほどの蒼白い顔をしている。くるみが13年生きてきて、初めて見るような、性別を超えて美しい人だった。
人では無い、それの前にはキャミソールの下着姿の女性が背中を向けて立っていた。白い指先が女性の首筋を撫でたかと思うと、ゆっくりと唇を寄せた。
男の唇が開くと、二本の鋭い牙が見えて細い首元に牙を立てたかと思うと、真紅の血が流れ初めた。
「…………っ!」
その姿に見惚れていたくるみだったが、彼が女性の首に牙を突き立てた瞬間、くるみは思わず身を乗り出して確認しようとし、手元を見ずに枝のようなものを掴んだ。
それには鋭い棘のようなものがついていて、指先に鋭い痛みが走り、思わずいつもの調子で小さく呻いてしまった。指先を見ると玉のような血がみるみる滲んでいく。
真紅の鏡面の水上の上で、人では無いそれがふと顔をあげた。くるみは思わず体を低くした。
(見つかったかな、怖い、逃げなくちゃ)
くるみは、見てはいけないものを見てしまった気がして息を切らしてながら走った。
あれは何かの撮影だったのだろうか。
でも、舞台衣装やコスプレのような物にしては作られたような偽物の印象は無く、彼の存在全てが自然で、本物のように思えた。
あれだけ美形なら、テレビでひっぱりだこになりそうなものなのに、一切見た事が無い。
それに、下着姿の女性とあんな場所で抱き合っているなんて、子供ながらに、あの二人が何かいやらしい事をしようとしてたのでは無いかと感じ、赤くなりながら今来た道を走ったが、行き着いた先は先程と同じ真紅の沼だった。
「ど、どうして!? 反対側に走ったのに、どうしてここに来ちゃうの……」
だが、その沼には先程の男性もおらず、女性の姿も見えなくなって沼に波紋だけが立っていた。くるみはとても恐ろしい物を見てしまったような気がして、背筋が寒くなった。
一刻もここから離れようと、再びもと来た道を戻ろうと振り返ると、いつの間にか先程の青年が目の前に立っていて、思わずスケッチブックと色鉛筆を落としてしまった。
男の手が、くるみの手を取ると溢れる血を舐めた。その美しい仕草と、男性に初めて傷口を舐められた羞恥で、くるみは赤面する。振り払いたいのに、恐怖よりも心臓が早鐘のように高鳴って抵抗する事が出来なかった。
「――――狭間を自ら越えてきたとは珍しい」
「……な、何するんですかっ、け、警察呼びますよ!」
「甘露な血だが、餓鬼なのが悔やまれるのう。俺は生憎、餓鬼には興味が無い……、空蝉に帰れ、妖し沼の事を忘れるよう、術をかけてやる」
指を離すと、顎を捕まれ顔を上げさせられた。銀色の瞳が鈍く光るが、ただ見つめ合うだけでくるみは困惑したように彼を見た。戸惑っているのは、くるみだけでは無いようで、その美しい鬼は怪訝そうな表情で自分を見ていた。
「……?」
「――――お前には、俺の魅惑が効かぬ。何故……嗚呼そうか、お前が空蝉の姫か。#まさかこの俺が__・__#が巡り合うとはのう……十年待ってやろう。再びこの場所で会おう、くるみ。俺の名は槐だ。心に刻み付けておけ」
どうして、私の名前を知っているの、と問いかけようとして、頭をガラスにぶつけて目が覚めた。
「痛っ、す、すみせん……」
新幹線の中で目が覚め、居眠りをして頭をぶつけた神代くるみは、思いのほか、大きな声をあげてしまった事に頬を染めた。こちらを心配そうに見ていた向かい側に座る中年夫婦に謝罪してうなだれた。
色素の薄い茶色の柔らかな癖のある髪を撫でながら、膝の上に置いていたスケッチブックを改めて見る。そこには、幻想的な沼とあの夢の中に現れた鬼の姿が描かれていた。
あの日、どこをどう歩いたのか気が付いたら、自転車の脇に立っていた。まるで白昼夢のような出来事で、年齢を重ねる度に幻覚か何かのだったのかと思うようになっていた。
調べてみてもあそこで撮影した映画やドラマなんて無い。
それにあの沼をネットで探してもあの辺りにそんな沼は存在しないし、噂があるとすれば、数年に一度、女性が森で行方不明になっているとか、そういった失踪事件しかない。
もしかしたら、中学生の時に見た夢を現実だと勘違いしているのかも知れないけれど、あの幻想的な景色と、吸血鬼のような美しい男性がいつまで経っても頭から離れなかった。
(でも、日本に吸血鬼なんて変だよね。鬼みたいに角が生えていたけど、あの地方の伝説に出てくる鬼なんて……朱点童子とか、いかにも鬼ってかんじだもんね……)
それに、23歳にもなって夢で見たような人を気にしていても仕方がない。
恋愛には奥手で誰かを好きになった事はあるけど、自分から積極的に行くのが苦手で、そのうち友達が付き合いだしたりして、なんだか恋人が欲しいと言う気持ちも無くなってしまっていた。
なにより、小さい頃からの絵本作家になりたいと言う夢を叶える為に、イラスト制作に自分の時間を割いていたので恋愛そっちのけでそちらに没頭していた。
その甲斐があって見事、コンテストに入賞する事ができた。
(それにしても、叔父さん達が、お祖母ちゃんの実家をリノベーションして、古民家カフェにするなんて……おしゃれだなぁ。私の作品も置いて貰える事になったし、将来的には個展とか開けたりして)
くるみは、スケッチブックをリュックに直すと新幹線を降りて、ローカル線に乗り換えた。絵本作家の他に、お洒落な古民家カフェで働きたいと思っていたので、叔父夫婦に声をかけられた時は嬉しかった。給料もきちんと出る上に、古民家カフェの住み込みで作家生活なんてとてもおしゃれだ。
少し心配だったのは、ここに越してくる直前で、叔母が入院し、叔父が看病するのでしばらく一人でお店を見ててくれと言われた事だ。
叔父によればお客さんも近所の人が多く、たまに写真を撮りにきた観光客が立ち寄る程度なので、一人でも暇な時間は多いと言う。
経営は大丈夫なのかなと思ったが、叔父は他でも稼ぎ口があるようで、古民家カフェは趣味の一つのようだった。
(都会よりも静かだから、制作進みそう……。楽しみだな!)
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