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第五話 紫陽花の猫②
午前中、カフェ『妖』でだいたいお店の雰囲気を掴めてきたくるみは、叔父が居なくても槐と二人で十分やっていけそうだ。それを確認すると、叔父は叔母の入院先の病院へと向かった。昼間のランチタイムはそこそこ忙しかったが、都会のチェーン店に比べればまだマシな方だろう。
鬼であることも忘れてしまう位の優秀な槐の働きによって、初めてこの店で働いたにも関わらず満足の行く結果を出せたように思う。ちょうど、客足が途絶え始めた14時ごろに、くるみは槐を振り返り言った。
「槐、先に休憩取ってくれて良いよ。お疲れ様」
「ああ、じゃあ……俺は少し休憩しようかな」
ついつい、何時もの癖で言ってしまったが、最早くるみも槐の事を、自然とアルバイト要員に考えてしまっていたようだ。槐は少し首を回すと、くるみの肩に手を置いて妖艶に微笑み家屋と繋がった休憩所へと向かった。
ホールにはお客さんが二人、この人数なら新たなオーダーが来ても、くるみ一人で回せそうだ。
カラン、と鈴の音がしたかと思うとこの辺りでは見た事の無い男性が入ってきた。日本人離れした目鼻立ちがはっきりとしている。日に透けるような金髪に、黄色がかった茶色の瞳で不思議な色で、ビー玉のように綺麗だ。シャツにデニムパンツ、スニーカーというシンプルでカジュアルなスタイルだが、モデルのような、しなやかな雰囲気がありとてもお洒落に見える。
都会の大学生、という垢抜けた雰囲気でこのあたりではあまり見ないタイプの子だった。やはり、目を引くのか先に入っていたお客さんも同じのようで、カウンター席に座る彼をチラリと見た。
「いらっしゃいませ」
くるみは笑顔で接客すると、水とおしぼり、そしてメニューを渡した。美少年は頬杖をつきながらパラパラと捲っていたが、ニコニコ可愛らしい笑顔を浮かべて言った。
「何にしようかなぁ。おねーさんのお薦めはどれですか?」
「当店では、自家焙煎したマンデリンのカフェラテが人気ですね。ランチタイムのベーグルサンドもまだやってます」
美少年は、まるで猫のようにじっとこちらを見てくる。可愛らしいだけに視線を感じると妙に緊張してしまう。くるみの提案に考えるようなそぶりを見せると、美少年はにっこりと微笑んだ。
「それじゃあ、カフェラテにしようかな。折角おねーさんがお薦めしてくれたベーグルサンドだけど、今日はお腹は一杯だから……ごめんなさい」
「いえ、とんでもないです。また次の機会にどうぞ。カフェラテですね、かしこまりました」
カフェラテを作る間、美少年は机の上に腕を置きながら、くるみの様子をにこやかに見つめていた。まるで餌を待つ猫のような仕草だ。彼の雰囲気から連想して、猫のラキアートを描くと、そっとそれを置く。
興味津々な様子で、鼻を動かし舌をつけると、あちっ、と言う声が出た。
「大丈夫ですか? 熱いので気をつけて下さいね。お砂糖などはご利用ですか?」
「ありがとう、おねーさん。やった猫だ! 可愛いなぁ上手だね。うん、甘いのがいいかな。それにしても、やっぱり、くるみは優しいんだね」
「お客様のイメージで作らせて頂きました。何となく猫ちゃんっぼいなって……、私が猫好きなのもあるんですけど……えと?」
特別熱く作ったつもりはないが、猫舌なのだろうか。心配そうにしながらくるみは砂糖やミルクなどを用意した。やっぱり、と言われてくるみは不思議そうに美少年を見た。こんな目を引くような美少年に逢えば、くるみの記憶に残るはずだが、全く見覚えがない。絵本のファンの方かな、とも一瞬よぎったが顔出しをしていないくるみの事を知る筈も無いだろう。
「……? 私、お客様と何処かでお会いしましたか?」
「さっき逢ったよ! 俺は青葉漣って言うんだ。ねぇ、くるみ……俺もここで働きたいな。君の側はとっても心地良いんだよ」
不意に漣と名乗った美少年がくるみの指先に触れた。どうして名前を知っているのだろう、と問い正したいがビー玉みたいな澄んだ瞳を見ると頭がぼんやりとしてくる。整った指先がやんわりと絡められても、知らない異性の客に触れられて、怖いと言う気持ちにはならなかった。カラーコンタクトでもしているのかな、それにしても綺麗だと引き込まれるように漣の瞳をじっと見つめてしまう。
「申し訳ありませんが、うちは充分、二人でやっていけてますので」
不意に横から槐の声が耳に届くと、ハッと意識を取り戻したように肩を震わせた、くるみは反射的に指先を引っこめた。槐の横顔は氷のように冷たく、カウンターから漣を見下ろす瞳は銀色の鬼の瞳で、殺意のようなものを感じられ慌てた。漣はと言えば、くるみが引っこめた指を名残惜しそうにしながら挑戦的に槐の方を見ている。
「あ、あのっ。当店のオーナーは叔父でして、アルバイトの採用は、私達では決められ無いんです」
「へえ……そうなんだ。残念だなぁ。でもいいや、くるみに挨拶出来たから。じゃあね!」
漣はそう言うと、カフェラテの代金を置いてにっこりと微笑みくるみに手を降ると店を出ていった。指に触れられたのは吃驚したが、先程の槐の態度に気分を害して店を出ていったのかも知れないと思い、抗議しようとしたくるみの耳元で囁く。
「全く、お前はいつあの鬼に目を付けられたのだ? 俺が居なければあの鬼の常夜に引き込まれてしまう所であったぞ」
「え、今の人が鬼なの? 普通の人にしか見えなかったけど……あっ」
槐も、彼が鬼と知らなければ普通の人間に見える。漣もまた人に化けた鬼だったのだと気が付くと体が冷たくなった。あんな綺麗な瞳でも人を食うのだろうか、と思っていると客席から見えないカウンターの中で、槐が腰に手を回してきた。思わず赤面して耳元にいる彼を見つめる。少々嫉妬するような眼差しで、くるみを見つめたかと思うと、首筋に軽く口付けられた。
「――――空蝉の姫よ、他の鬼にうつつを抜かすとは、今夜は覚悟して置くと良い」
「……っ、もうっ、お昼間からっお客さんも居るんだよ」
店にいるお客さんに見られなかったのは幸いだったが、ベタベタ懐くように抱きついてくる従兄弟を真っ赤になって押し退けた。
Cafe『妖』を出ると、漣の姿は白地に刺繍が施された着物姿になる。二又に分かれた尻尾を揺らしながら楽しそうに笑った。
「なるほどねぇ。空蝉の姫なんて滅多に合わないから他の鬼にお手つきされてるのは意外じゃないけど、へぇ、あの鬼って朱点童子じゃん。頼光に負けたって聞いてたんだけどな。でもあんなお年寄関係ないもんね! くるみは猫が好きみたいだし……俺の姫にするんだ」
猫の機嫌よく尻尾を振りながら、まるで空気と共にかき消えるように姿が無くなった。
✤✤✤
何とか今日一日を乗り切って、くるみは一息を付いた。出勤初日にしては良いスタートを切ったのでは無いだろうか。漣のことは少々驚いたが、特に害が無かったので良しとする。
今夜の食事は自分が担当する事になったので、生き血以外に好物のものは良くわからないが、冷蔵庫にある食材で適当に夕飯を作った。洋食にも関わらず、満足してくれたので少し安堵した。
槐がお風呂に入っている間、くるみは水彩絵の具と画用紙を取り出して、描いてみる事にした。話の内容はまだ全然浮かばない、ある意味リハビリのような気持ちで、昼間の店の様子を思い浮かべて描いてみた。
新人賞を受賞して、一度本にはなったがそこから先が中々前に進めなかった。そのプレッシャーに負けないようにしてきたつもりだが、いざ絵本を描こうと思うと、そこから逃げ出してしまいそうになる自分がいる。
だから、画用紙を取り出して他愛もないイラストを描いていた。店舗を描いた絵の中に今日の槐を描きこんでみる。
「のう、それは俺か? また俺の姿絵を描くとは可愛い奴め」
「わっっ!! 吃驚した! もうお風呂上がったの?」
突然背後から声をかけられ、良い香りがするとくるみは赤くなった。まだ濡れた髪をタオルで拭いた槐が背後に座ると、肩越しにイラストを見てくる。相変わらず距離の近い槐にドキドキしつつ絵を描いていた。恋人同士ってこんな感じなのだろうか、と意識しながらも手を止めずに色を塗る。
「お前の絵は温かい気持ちになる。俺はこの地で常夜の中を彷徨っていたが、くるみが俺を想って姿絵を描いていた時は空蝉を覗いて見ていたのだぞ」
「ほ、本当に……? 私のイラスト温かい気持ちになるの? って覗かれてたんだ!? 恥ずかしいな」
「小娘とは思えぬ、技量であったぞ」
まさか、人ならざる鬼に絵の事を褒められてしまうとは思わず嬉しくなって頬を染めた。そして自分が知らなかっただけで、槐が常夜から空蝉を自分を覗いていた事に驚いた。誰かを想う気持ちが、知らぬうちに別の世界に届いていたのだと知ると、くるみはそれが素直に素敵だと思えインスピレーションを掻き立てられた。
ふとくるみの華奢な腰に腕が回ると、槐の低く甘い声で耳元で囁かれる。
「くるみ……」
「なっ、なに……? 昼間の事はその、べつにうつつを抜かして居た訳じゃ無くてっ!」
「――――風呂に入ってこい。嗚呼、そうだな、お仕置きがてらに俺がお前の背中を流してやろうか?」
浮気したつもりもないのに、慌てて取り繕って墓穴を掘ってしまったくるみは、真っ赤になってすくっと立ち上がった。お風呂に一緒入ったら一体何をされるか分からない。見上げる槐にドキドキしてしまってどうしようもないので、一日の疲れを癒やす事にした。
十年前に出逢った異形の鬼、見えない壁を挟んで互いを想っていたこと、そしてまだ一日のしか経っていないのに、この安心感に甘えてしまって良いのか。軽薄過ぎないか、と自問自答しつつも自分の変わりゆく思いに否定しきれない位に、槐を意識している。
(それにしても、槐ってうちの親より理解あるんだよね。私ももっと、鬼の世界の事を知りたいな。そう言えば、なんの妖怪なのかって聞いたらはぐらかされちゃったよね。良く知られた鬼か……まさか、朱点童子なんてこと無いよね、この辺の鬼だからって、私安直すぎかな)
くるみの背中を見送り、不意に立ち上がり瞳を細めて笑みを浮かべると、槐はくるみを追うように風呂場に向かおうとして何かの気配を感じたように、ふと足を止めた。
『朱点童子様、源が動いているようです』
「常夜から行儀が悪いぞ、茨木。存じておるわ」
『――――っ、失礼致しました。女にうつつを抜かすなんて朱点童子様らしからぬ事ですので』
「不満そうだな、空蝉の姫は興味深い女で俺を魅了して止まない可愛い娘だ。お前もいずれ挨拶しろよ。じゃあ、見回りを続けろ」
肩越しに笑って答えると、まだ抗議しようとする声にひらひらと手を振って見送り、風呂場に向かったくるみを追いかけた。
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