第六話 紫陽花の猫③

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第六話 紫陽花の猫③

 ふと、誰かに呼ばれたような気がしてくるみは目を覚ました。隣には当たり前のように槐が健やかな寝息を立てている。くるみは目を擦りながら、喉の乾きを覚えて立ち上がると台所に向かった。  リノベーションしてカフェにしたが、住居部分は昔と変わらず、歴史を感じさせる縁側の廊下を歩いていた。ふと猫の鳴き声が聞こえて庭の方を見ると、昼間見た茶トラの猫がちょこんと座っているのに気付いた。赤の首輪に勾玉の飾りがついていたので、昼間に出会ったあの人懐こい猫に間違いないようだ。 「あっ、猫ちゃん! どうしたの? もしかしてこの辺りの子なのかな」  くるみは一気にテンションが上がってしまい目が覚めてしまった。縁側の扉を開けるとサンダルを履いて茶トラの猫の元へと向かった。くるみが近寄っても逃げようとはせず、頭を撫でられ喉元を撫でられると金色(ゴールド)の瞳を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らし、ニャアと鳴いた。こんな夜遅くに出歩いている所を見ると外飼いにされていて、家から締め出されているのだろうか。しかしこの『妖』から隣のご近所さんまでは離れているので、猫の足でも結構歩いている事になる。 「どうしよう、猫ちゃん……今夜だけでもお家に泊まる? でも飼い主さん心配しちゃうかな」  ちょこんと座ったままの茶トラの背中を撫でていると、細くなった目が開かれ不意にくるみから離れた。もう帰るのかと思ったが、猫は少し歩いてくるみを振り返ると尻尾を振った。追いかけるように歩くと、また数歩歩いて振り返ると尻尾を振って、みゅう、と鳴く。 「何だか、どこかに案内したいみたい。何かあるの?」 「ニャー」  鍵をかけなくても平気な田舎ではあるが、深夜となれば物理的にも防犯的にも怖さがある。だが、何故か茶トラの猫の事が妙に気に掛かって、まるで不思議の国のアリスのように猫を追いかけた。庭の裏口を開けると猫が歩いていく。それを追い掛けるようにして小走りに歩くと暫くして深夜の畦道(あぜみち)に来た。  ちょこんと真ん中で座り込んでこっちを見る茶トラの猫を撫でようとした瞬間、誰かに手首を掴まれ、地面から別の空間に入る。 「きゃっ!?」 「くるみ! 捕まえたー!」  グラリ、と180度視界が回ると、目の前には満面の笑みで昼間、来店した美少年こと青葉漣が着物姿でくるみの手首を捕まえ抱きしめてした。さらさらの金髪から見える猫耳、首元には赤い猫の首輪に勾玉の飾りがついていた。金色(ゴールド)のビー玉のような瞳でくるみを見つめた。辺りは季節外れの紫陽花が咲き乱れていて、散策路の階段に一本の大きな電柱が立っていて何処までも澄んだ綺麗な気持ちのいい青空が広がっていた。 「れ、漣さん?? あの猫ちゃん、漣さんだったの??」 「ふふ、そうだよ。あの時くるみが俺を見付けてくれたから、こうして俺の常夜に呼べたんだ!」  漣は嬉しそうに二又の尻尾をゆらゆらと揺らせると、くるみの唇に軽く口付けた。驚いて真っ赤になると思わず彼の胸板を押す。そう言えば槐が、漣が鬼だと言っていた。空蝉の姫として自覚をすれば、他の鬼も自分の存在を感知する事が出来ると言っていた事を思い出すと、初めて事の重大さに気付いた。まさか漣があの猫とは思わず、可愛らしい姿に騙されて、彼の常夜(テリトリー)に入ってしまったのだ。 「漣さん、あの……私の事をどうするつもりなの? 殺したり……血を吸ったりするの?」 「くるみの事は殺したりしないよ。だってくるみは猫が好きでしょ? だから、俺もくるみが好き! この常夜でずっと一緒に暮らしたいんだ。俺の姫様になって欲しい。あんなお爺ちゃんの常夜よりもこっちの方が楽しいよ、空蝉の姫」  漣はまるで子供、と言うより動物のように無邪気に微笑んだ。悪意が無いからこそ、その無邪気さが少し恐ろしく感じられた。彼の澄んだビー玉のような瞳は、絶対に獲物を逃さないという強い意志を感じたからだ。漣は、にこにこしながら、華奢なくるみを抱き寄せ、スリスリと猫のように頬を擦りつけてきた。鬼にしては彼の性格は温厚なように思えたので、くるみは、とにかくここから出して貰うように頼む事にした。 「でも、漣さん。お店もあるし……少しなら遊べるけどずっとは無理だよ」 「そんなの嫌だ。だって……常夜を出たらまた捨てられる。ねぇ、くるみ。俺と交尾しよう。人間は好きな人とするんだよね。あのお爺ちゃんより絆を作りたい」  漣は、一瞬声を低くして沈んだように呟くと悪戯っぽい笑みを浮かべて笑った。くるみの首筋に柔らかな唇を押し当てると、つぅ、と舌先を首筋に這わせた。くるみはビクリと体を奮わせ、敏感に反応する。緩やかに伸びた大きな手の平が、くるちの背中を撫でると急に怖くなって声をあげた。 「い、いやっ……! 槐っっ!」  その瞬間、ぐにゃりと空間が歪んだかと思うと紅葉が紙吹雪のように飛び出し、漣の常夜を切り裂くと、舌打った漣がくるみから離れた。不意に強い力で誰かに腰を抱かれ引き寄せられ、紫陽花の花を水没させるように、あの澄んだ沼の水が流れ込んでくる。 「全く世話の焼ける空蝉の(おんな)だ。あれほど他の鬼に気を付けろと言うのに。こんな(ガキ)に目をつけられるとはのう」 「え、槐……」  呆れたような声が耳元で聞こえ、反射的に見上げると、槐が冷たく鋭い眼差しで漣を睨み付けていた。普段は飄々(ひょうひょう)としている槐が静かに怒りを見せる姿は、くるみでも思わず青褪めてしまう程怖い。漣も一瞬怯んだものの、牙をむき出しにして彼を威嚇した。槐の長い髪がゆっくりと舞い上がり銀の月の瞳が鈍く光ると、見えない波動のようなものが放たれる。それに押し退けられるように、ズリズリと常夜を後退しながら、漣は鋭いナイフのような鉤爪(かぎづめ)を出しそれに耐えた。 「チッ……何だよ、お爺ちゃんが起きてきちゃった。くるみ、俺と一緒に行こうよ。俺の事可愛いって言ってくれたでしょ!」 「――――猫又のガキが戯言(ざれごと)を言う。くるみは俺の空蝉の姫だ。お前など今すぐこの俺が(くび)り殺してやる」 「漣さん、ごめん……行けないよ」  くるみがそう言うと、漣は傷付いたように目を大きく開けて項垂れた。その表情は恐ろしい鬼であっても、罪悪感に狩られるようなものだった。 「だったらなんで……なんで可愛がるんだよ、嘘つき……。なんだよ、人間なんて……みんな、みんな嘘つきだ!!」  漣の目から大きな涙が溢れて顔をあげると、口の避けた大きな化け猫のような、猫又が襲いかかってきた。槐がくるみを背中に隠して割れたて己の常夜(テリトリー)から刀を取り出していく、その一連の動きがスローモーションとなってくるみの瞳の中に映った。  そして、流れ込む漣の過去の記憶――――。 ✤✤✤ 『わぁ、可愛いっ……仔猫だぁ!』  小学生くらいの女の子達が、ダンボールを覗き込むとその一人が小さな茶トラの仔猫を抱き上げた。ミィ、ミィ、と鳴きながら震える仔猫は彼女の指先を舐めた。女の子達は茶トラの仔猫を撫でながら言った。女の子の名札は青葉渚(あおばなぎさ)と書かれていた。 『家で買えたらなぁ。(なぎさ)ちゃん、パパもママも優しいから飼っても良いっていってくれそう』 『うん、このままにしておけないよね。ママとパパに聞いてみるよ。ね、うちにおいでよ! 名前はそうだ、レンにしよう』 (ナギサ……?)  仔猫は首を傾げながら、女の子の腕の中に抱かれると一軒家まで帰ってきた。神経質そうな母親は仔猫を見るなり一瞬、嫌な顔をして捨ててくるように言ったが、後ろから現れた優しそうな父親は笑顔で、飼う事を許した。渚はちいさなレンの額に口付けた。 『ありがとう、パパ! これからはこの家の子だからね、レン』 (おれに……おうち?)  それから、レンと渚は何をするにも一緒だった。渚はとても仔猫を可愛がり大切にして、忙しい日も彼の為に時間を作った。時には、彼女の部屋で悪戯をして叱られる事はあっても、レンは渚が大好きだった。 『ふふ、レン……ずっと一緒だよ。大好き』 (おれも、ナギサが好き!)  ニャア! と漣は答えた。  毎日が幸せな毎日だったが、レンには一つ恐ろしい事があった。この家にいる渚の母親は、レンの事が正式に飼うようになっても、レンの事が大嫌いだったのだ。何時も渚が学校に行っている間は大きな声で叱りつけ、乱暴な扱いをした。  ある日、母親が大事にしていた高価なものを棚から落として壊してしまうと、ヒステリックな声で罵倒された。乱暴にキャリーケースを取り出すと嫌がるレンを無理矢理中に押し込めた。 (どこに行くの! 出してよ! ナギサ!)  ニャア、ニャアと泣き喚いたが母親は無視をして車に乗ると山深い場所まで走らせた。そして、あろうことかレンをキャリーケースから出すとその場に置き去りにして去っていってしまった。  仔猫は慌てて鳴きながら車を追うが、追いつける筈も無く、トボトボと歩き始めた。家の場所なんてわからないが、取り敢えず真っ直ぐ道なりに歩いた。  空腹と、孤独と、ナギサに会えない寂しさで何日彷徨ったか分からない。雨風を偲んで、生ゴミを漁った。紫陽花が咲き始めた頃、ようやく見慣れた町に戻ってきた。ここまでくれば、後は記憶を辿るだけだ。 (ナギサに逢える……!)  レンは尻尾を立てて、見慣れた一軒家まで帰ってきた。もう直ぐ大好きな渚に逢って温かい食事と柔らかな毛布で眠れると喜んだ。ひょい、と塀に飛び乗ると部屋の様子が見えた。そこには大好きな渚と、可愛い子犬、そしてあのレンを捨てた母親が笑っていた。後ろには二人と一匹を見守るように父親が優しく微笑んでいた。 『ほら、レン! お座りだよ』 (レン……? 違うよ、おれはここにいるよ) 『良い子だね、レン。お手は?』 『やっぱり犬の方が飼いやすいわね。猫は躾が出来ないし、直ぐに逃げちゃうでしょ』 『渚に笑顔が戻ってよかったよ』 (違うよ、おれは帰ってきたよ! なんで同じ名前なの。ナギサはおれじゃなくていいの?)  レンは鳴きながら塀を降りると、反対方向に走った。大好きなナギサの事を思いながら鳴きながら走った。  道路に出た瞬間、軽自動車がクラクションを鳴らしてブレーキを踏んだが、それに気付いた時には茶トラの仔猫の体は軽自動車に轢かれていた。薄れゆく意識の中、目の前に咲いていた紫陽花の花弁に、天からの落ちた雨粒が涙のようにポツポツと濡らしていた。  この常夜の紫陽花は、漣が猫として亡くなった時に見た最後の情景(きおく)だ。   いつの間にか、くるみは涙が溢れて頬を伝ってくるのを感じた。そして槐と漣を止めるように大声で叫んだ。 「――――だめぇぇぇぇ!!」
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