まだ途中ですけど訳分からんくてどうしようという状況

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 私は大学1回生。私立の大学に通っていますが不本意入学なのです。その理由はもちろん第一志望の学校へ行けなかったからです。この学校へ進学することが決まって少しばかり絶望していた反面、私が想像しているよりはマシなところなのではないだろうかという期待もありました。しかし、その期待は淡くて脆かったということが初めての授業を受けて即座に証明されました。半分くらいの学生は真面目だったのですが、もう半分くらいは不真面目で、教授も不真面目な方の半分に学力を合わせに行っているように見えて、これはもう期待できないと思いました。勉学については自分でなんとかするとして次は課外活動に期待を寄せました。課外活動といってもそんなにしっかりしたものではなくて、サークル活動程度のものですが、試しに行ってみることにしました。私は高校までサッカーをしていたのでフットサルサークルに参加させてもらいました。そこに行ってから気付かされたのですが、このサークルは男女混合でした。ですから、男子は女子の実力に合わせることが多く、まるで接待のような関係性を示していました。ここでも私の期待は裏切られました。強くもなく弱くもない程々に運動量のあるものだと想像していました。私は1,2回ミニゲームをさせてもらってからサークル長と思われる人に、「用事があるので今日は帰ります。ありがとうございました。」と申告しさっさと帰りました。  これらのようなことから私は大学に対して絶望感のみ抱くようになりました。一応友人はできました。それも、とても気の合う友人が出来ました。私は小中高でそれぞれにこれからの人生でも関わっていくだろうなと思える友人が必ず1人は出来ていたので彼もそのような人だろうという感覚がしました。早めに見つかって良かったと安堵しました。また、他にもわずかに友人が出来ました。ありがたいことです。ですから、大学に関する全てのことに絶望した訳では無いことを断っておきます。私が絶望感を抱いているのは主に学力の低さと学生の半分くらいが低脳ということに対してです。  私はしばらく学校で生活していればこの絶望感にも慣れて普通の大学生になるのだろうと思っていました。(ここでの普通とは堕落したと同義です。世の大半の大学生は堕落していると思っているので普通と言っても差し支えないと判断しました。)しかし、意外にも私は慣れませんでした。慣れることに無意識に抗っていたのでしょうか。もしそうだとしたらその反抗心を褒め称えると共に現状に満足できない頑固さを鬱陶しく思います。私はしばらくの時が経つ間に何を考えていたかと言うと、何とか大学生活を充実させたいとあれこれ考えていたのです。そこでまず、現状を整理しました。何故、私がここまで大学に絶望しているかと言うと、それは既に述べたように学力と学生の質の悪さです。原因は分かりきっているのです。これらを改善出来れば私は大学に満足します。ですから、何か良い案がないかまた考えました。考えたのですが、私が学長になって改革する他ないのではないかという結論しか出てきません。不可能です。出来たとしてもその頃には私はしっかりとこの大学を卒業しているので意味がありません。私にはなすすべがなかったのです。そして、恐らくこのような結果になってしまったことが私により一層の反抗心を生み出したのではないだろうかと思いました。そこで再び考えました。どうすべきか。日々を過ごしながら考えた結果、降参することにしました。どうやっても良くなりそうにないのです。ですから、私は大学に良さを求めるのではなく外に良さを求めることにしました。これは迷案ですね。根本的な解決になっていないという点で迷案ですね。仕方ありません。  私は昔から絵を描くことが好きでそこらの人よりは少し得意でした。しかし、絵を描くといっても油絵やデッサンなどといった大層なものではなく、漫画やアニメのキャラクターの模写をする程度でした。でも、絵を描くことが好きということには変わりが無いので、大学外の活動を充実させる為に絵を描こうと思いました。そして、やるならとことんやってやった方が潔いので油絵を習うことに決めました。  やるからにはとことんやると意気込んでいたので環境もその気合いに比例して良いところを選ぶことになりました。現役で活躍されている画家の先生などが居るところにしました。  初めての授業で私は圧倒されました。そこに通っている生徒は20代くらいの方から年配の方まで幅広い世代の男女が居ましたが、誰も彼もが目を見張るほど上手いのです。写実的な絵は今にも動き出しそうなほどリアルで抽象的なものもまじまじと見ていると存在感がありました。それから私のやる気に拍車がかかり大学のゼミにも入らず絵を優先しました。最低限のやることはやって、あとは絵を描きました。しかし、しばらくこのような生活を続けていると、ふと、ある疑念が頭をよぎるようになりました。私は何のために絵を描いているのだろうという疑念です。そして、この疑念が頭をよぎり始めてから絵に対する意欲も減退していきました。こちらも大学の授業のようにやることはやっているという状態になってきてしまいました。なんのために絵を描いているのだろう。電車の中で考える。当初の情熱は消え去り今は何を原動力として動いているのだろうか。そもそも原動力など存在しているのだろうか。ただの義務感でやっているのではないだろうか。ああそうだ、そうかもしれない。絵をならい始めたきっかけは絵を極めたいとか絵が好きだからではなく大学の不満を埋めるためであったと思う。絵が好きなのは事実であるが描き始めるための要因とはなっていない。充実感を得るために絵を描かなくては、と思ったはずだ。しかし今、充実感を得ることに慣れてしまった。今まで充実感を得ることを原動力としてきたのにそれが原動力でなくなってしまった。残るは続けないと私には何も残らないという脅迫。これが描き続けることへの義務感へと変化したのだろうか。こんなことを考えていたら足取りが重くなるはずなのに絵画教室の最寄り駅に着けば自然と足が動き出す。もはや自動である。自動的に電車から降り、階段を登り、改札を出て、絵画教室へ歩を進める。この一連の行動に自己意識はない。虚無である。  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!