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「マジ万字企画 【純文学】編 書評④」
【⑤】『明治恋物語』 著:蒼井 祐希(前_一松) 様
https://estar.jp/novels/25532165
前回もご参加頂きました、蒼井様の作品です。
前作とは違い、短編書下ろしの作品です。
私が物語を読む前に必ず行う作業で、「あらすじ」と「章立て」と「文字数」を見ます。冒頭を読んだ上で、もう一度これを見ます。長編の場合は、全ての章に飛び、初めのページを読み、また戻ります。ページの三分の一、半分で、もう一度これを行います。
私流の、最も合理的に読み解ける方法です。映画でも同じで、常に時計を見ながらシーン考察をしています。この話のこの密度でこの時間を使っているなら、こうなるはずだ、という演出プランを把握しておくと、それ以外の「作家性」に注視する事ができるからです。
大抵はこの方法で不都合ないのですが、時折、それが通用しない作家さんも登場します。
今回も直球でしたね!
色々と論理立てて考察していますが、正直、直球速い人には、見惚れるしかないのですよ。こればかりは理屈云々では無く、有体の単語しか発声できなくなってしまうのです。
書評家殺しです。
少年が、可愛い!
もうこれしか言えなくなります。
細かい事を指摘すればキリが無いのですが、それは全て表面的な体裁でしかなくて、仮にその細かい部分を直した場合、この少年の「可愛さ」が何か一つでも変わるのか? そう問われれば、全く変わらないはずで、むしろ劣化する可能性の方が大きいのです。
大がかりな労働者と重機を使って鉄鉱石を量産するのと、ボツナワの荒野を一人で駆け回ってダイヤモンドを探すのと、どちらが良いかと問われても、そんなの分からんのですよ。
次回の募集テーマを何にするか迷っていましたが、決めました。後で書きます。
感情的に書いていても仕方が無いので、ちゃんと解説します。
主人公の少年はある日、「先生」と呼ばれる男性と出会います。先生は非凡で、常識はずれで、おっちょこちょいで、少年の知らない物を知っている大人でした。そんな先生に、少年は恋とも言えぬ憧れを抱きます。
あらすじは明瞭です。でも、もし私がこれを「三千文字」で書けと言われたら、お断りします。無理です。「先生」の諸設定だけで一万字欲しいです。
しかし、これを平然とやり遂げてしまう作家さんは多数存在します。
蒼井氏もこのタイプです。理屈じゃないのです。正直、「先生」をなぜ好きになったのかは、私には分かりませんでした。でも、好きで好きで仕様がないのは、どの文章からも見えます。
「なぜ、そんなに気になるの?」
そう問われても、
「気になるんだから仕方ないじゃない!」
しか回答はありませんよね。むしろ、こんな理屈っぽい問いをした自分が唐変木に思えてくるくらいです。
帰ってくるはずの先生が帰ってこなかったら、雨の中をずっと待っていたくなるのです。
少し論理的に説明すると、これが成立するのは「幸せ」な状態での主人公の考察にあります。少年は、幸せな状態で「先生」の機微を嬉しそうに語っています。これが凄く重要です。
人は「不幸な人」を観察するのは得意なのですが、「幸福な人」を観察するのは苦手です。ましてや他人の幸せなど、どうでもいいのです。
幸せな「先生」を切々と語る様に、主人公が「他人ではない」感情を持っていると伝わり、子犬のように「先生」の帰りを待つ哀切が滲み出ているのだと思います。
理屈は分かっても、書けないものです。
おそらく、論理的に狙っては書いてはいないでしょう。純粋な感性の賜物です。
こうした作風も、「文学」です。
余談ですが、芥川などもこれについて言及していて、「雑音」の多すぎる現代(当時の)文学からの脱却を目指し、如何に直球で物事を伝えるのか? というアフォリズムに着想を求めました。
太宰などは、綺麗に書いている作品を途中で止め、「俺、こんな変化球書きたくねーんだよ! 直球投げたいんだよ!」との嘆きを、そのまま書き残している作品まであります。
雑音無しで書き記すって、それくらい難しい事で、誰にでもできる事ではありません。
前回も今回も、なぜこんなに「可愛い」のか、理屈で説明できませんが、この雑音の無いストレートな表現が愛らしい……、と無粋にも論拠を含めて解説させて頂いた次第です。
『まとめ』は、書きません。もう許して下さい。
「可愛い」ものは「可愛い」。
蘊蓄オジさんではこれが限界です。むしろ女性陣からの意見が聞きたいです。
【総括】
前回よりもかなり理屈っぽくなってしまい、申し訳ありません。「穿った見方」もしていますが、「文学」となると、読者も熱くなるのです。
(もう一つ蘊蓄入れます)
「穿った見方」を辞典で引くと、「正確な見方」となります。でも現代の日常会話では「疑問を持った見方」として使用されています。
どちらが正解でしょうか?
この定義を考えるのも、「文学」的です。民主主義を振りかざす私は後者を正解としますが、語源を大切にされる方は前者が正解でしょう。でも「多数決」が崩壊し、または「語源」が崩壊した場合、この言葉はどのように解釈されるのでしょう?
そこに残された「純粋」なものを「文」として「学」に収める。そんな「なんだか良く分からんもの」を考察する楽しみが、純文学の魅力だと思っています。
それにしても、前回に引き続き、全員違う方向性ですね。より顕著に、この違いを読んでみたくなりました。
よって、次回も募集させて頂きます! (9月5日土曜 20:00 予定)
次回は内容には触れません。ジャンルも不問です。
【 本気の「キャラクター」 】
にて、募集致します。
もう一度言います。
内容には一切触れません!(触れないと書けないので、多少なり触れると思いますが 笑)
「このキャラクターだけ、見てくれ! 生涯使いたいキャラだから!」
という作品を読ませて欲しいです。
ラノベ的なヒロインでも、「がらがらどん」的な摩訶不思議なものでも、「羅生門」の猿みたいな老婆でも、なんでも構いません。
応募の際に「キャラクターの指定」をお願いします。
長編が多くなる可能性があるので、少々募集規定に制約をつけさせて下さい。(次回以降も、同じ規定を設けます)
基本は「二万字」程度で書評致します。
長編の場合「〇ページから〇ページまでで」と制限してもらえると助かります。
「いや、それじゃ分からんでしょ? もう少し先まで読んで」
という場合「梗概」を千文字程度で添付して欲しいです。
(賞などの応募で付けるもので、起承転結が全て書いてあるものです。書き方は「小説 あらすじ 新人賞」などで調べて下さい)
正直、これ無いとキツイです。時間が幾らあっても足りません……。逆に、これがあればかなりの量が読めます。
面倒かとは思いますが、ご協力をお願致します。
一応、「五作品」限定にしていますが、応募数次第では上限増やすかもしれません。(二週には分けますが……)。
また、その時間はどうしても無理! って方は御連絡下さい。「時間がある時に読んでいく枠」にはなるかと思いますが、善処致します。
全て、私の体力次第ですので、正確に何枠まで、との確約はできませんが……ご了承を。
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