第一話「予感」

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第一話「予感」

 ピアノのメロディーで、朝、目が覚める。 「雨だ」  カーテンを開けると、どっしりとした灰色の雲が空を覆っていて、どの家の窓も雨粒に激しく打たれていた。  僕は夏服に着替えて廊下に出て、姉さんの部屋のドアをノックする。 「……優雅、ごめんね、起こした?」  ピアノの旋律がやみ、僕を気づかう声だけが、ドアのむこうからかすかに聞こえてきた。  部屋のドアを開けると、ピンクのパジャマ姿の姉さんがピアノの前に座っていて、泣きそうな顔でこっちを見ている。白いショートカットの髪に乱れはなかった。 「大丈夫だよ。今日、文化祭の準備があるんだ」  夏休み。特に予定もない僕は、姉さんの看病をするか文化祭の準備をするかのどちらかで、学校の課題は姉さんと協力して片づけた。 「姉さん、朝食はとったの?」  姉さんは、顔をフルフルと横に振った。 「じゃあ、そうだね……。パンと目玉焼きとアップルティーでいい?」 「ハーブティーがいい」 「了解」  二階から一階におりて、キッチンでパンをトースターに入れる。仕上がるまでにフライパンで目玉焼きを作ろうとしたところで、 「……優雅も、ハーブティー?」  姉さんがキッチンに来て僕の隣に立つ。 「うん」 「準備、手伝うね」 「ありがとう」  それ以降、朝食を食べ終えるまでは、ふたりの間に会話はなかった。今日は、夏なのに涼しげに時間が過ぎていく。 「じゃあ、行ってくるよ」 「気を付けて。あまり、遅くならないでね」  うん、と僕はこたえ、姉さんは行ってらっしゃいと、見送ってくれた。  傘をさして玄関の扉を閉めると、どうしてだろう、寂しそうにガチャンと音がした。  学校までの道をゆっくり歩く。まだ時刻は六時くらい。だからだろう、道を歩く人は僕だけだった。  田んぼの手入れをする人も、いない。  そういえば何年も前、まだこの町は農村地で、どこかに神社があったと先生が言っていたのを思い出す。結局、村興しは無期限の延期――事実上の廃止になったのだけれど、この町には当時の名残の廃駅や廃ビルなんかが所々に残っている。  この町にたった一つしかないコンビニでアイスを買う。  廃棄されたバス停留所の椅子に座って封を開け、一口かじる。かじりながら、空を見上げた。さっきまで意識はしていなかったけれど、空のにおいが漂ってくるのがわかる。何気ない時間のなかで、こういうことを意識するようになったのは、いつからだろう? 「ねぇ、隣良い?」と、突然横から女性の声がした。  僕は、え? と、小さく息を吐くような声を出して横を向く。  制服だろうか? 半袖の胸元に見たことのないエンブレムがある。 「ねぇ、隣良い?」と、彼女は微笑んでもう一度言った。 「あ、えっと、えぇ良いですよ」  綺麗な顔に緊張してしまい、変な声を出してしまった。 「ふふ、ありがとう」  ロングストレートの髪も、スカートから出ている足の肌も、もちろん半袖から見える腕の肌も綺麗だった。見たことない人のはず。でも、誰かの面影があるような。 「あの、どこかでお会いしました?」 「ん? いいえ」 「そうですよね、すいません」 「いいえ」  ……でも、この人、どこかで。 「だけどね、これからは、会うかも。夏休みが終わったら」と、立ち上がって彼女は言う。  それって。 「私、魅道福与。よろしくね」  瞬間、雨が上がった。日差しが屋根の隙間を通ってくる。彼女の肢体が照らされて、同時に、頭のどこかで歯車が噛み合うような音がした。それから、彼女とは短くて、でも濃密な付き合いになるだろうと、そんな予感がする。
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