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14 繰り返されること(終章)
書院の隠し階段を降りると、青木はこちらに背を向けて阿弥陀像と対座していた。まるで瀕死の病人のように、肩で息をしている。痩せた躰いっぱいに、おのれの〈仕事〉の重圧を受け止めている。
正人は文机の脇の刀を取り上げ、鞘を払った。たよりない灯りにさえ、刀身は凄い輝きを放った。刀の妖気がのり移ったかのように、正人の目も異様な光を帯びた。
青木がふり向いた。抜き身を提げた正人を見ても、僅かも表情を変えない。そのかわり、虚弱な、深いため息をついた。
「今日はいくつ試した?」正人は詰問するように訊いた。
「今度で八回目。今日はこれを最後にしようと思います。もっとも、次が〈当たり〉かもしれないが……いつも、直前にそう思ってしまう」
「もう、やめるんだ。その仏像には二度と触れさせない」
「わたしの後を継ぐ気になってくれましたか?」
「そいつは、破壊してしまうんだ」
「ばかな。破壊どころか開封しようとしただけで、これは不完全な起動を始める。世界は、時間をかけてゆっくり消滅することになる。同じ死ぬのに、ズルズル苦しまねばならない。想像してごらんなさい。すべてを呑み込みながら、ゆっくり自分に向かって来る無の闇の恐怖を。まだ、そこまで思い出せないか? 正しく動かせば一瞬で済むのです。苦しむ間もない。どうして破壊するなどと……」
「……」
「さて、もう一つ。さっさとやってしまおう。夕食の時間だ」
「いや、もうさせない」
「わたしを斬るか?」
青木は、正人の手に握られた刀を見つめた。
「そのために用意されている刀だろう。壁に血の痕があるじゃないか。前の住職は、おまえが殺したんだろう」
「今のあなたのように、そのとき、わたしもいきり立っていた。が、住職は死を望んでおられた」
「おまえも望んでいるのだろう。自分の手で世界を終わらせるのが怖ろしい。それなら、他人に殺してもらったほうがいい。悟りは得たし執着もない。あと涅槃に入るための条件は〈自殺以外の死〉というわけだ。卑怯者め!」
「よくわかってきたじゃありませんか。もう充分住職をやっていける。はは」
「黙れ! 望みどおり殺してやるぞ。ここが苦界であったとしても、それでも人は生きてゆくんだ。卑怯なおまえらのように、逃げ出したりはしない」
「ニーチェの〈超人〉ですか。結構。書院の本すべてに目を通してごらんなさい。考えも変わります。さて――」阿弥陀像に向き直り、〈仕事〉にかかろうとした。
「やめろ!」刀を振りかぶった。
青木は、かまわず像の光背に手をかける。
「やめろォ!」
瞬間、青木が、ただの有機物の塊に見えた。気味悪くうごめく細胞の群。それがためらいを消した。斜め下に斬りおろした。
ガツッ、と骨を断ち切る鈍い抵抗。血しぶきが飛んだ。それは正人の顔にかかり、壁の血痕に重なった。
肩から血を噴き出した躰が、翻ってこちらを向いた。正人は悲鳴をあげ、握った刀を突き出した。刀身が腹を貫く。自分のしたことに驚愕した正人は、熱い物から手を逃がすように、刀の柄を離した。
腹部を貫通した刀身を抱いて、青木の躰が崩れ落ちた。溢れる血が、見る間にゴザを染めてゆく。
瀕死の青木は、残った力で、阿弥陀像に向いて掌を合わせた。口は経を唱えたようだ。しかし喉を塞いだ血のせいで、声はゴボゴボという音にしかならない。合わせた両の掌は離れ、やがて床の上に落ちた。
死に顔は安らかだった。嫉妬を感じるほどに。たった今、青木は重過ぎる責任から解放されたのだ。
これで彼は輪廻転生の罠から逃れ、本当に涅槃に入れたのだろうか?
正人は、さまざまな思いを込め、目前の阿弥陀仏に問うた。
阿弥陀仏は、薄い唇に酷薄なほどの笑みを浮かべ、無言で正人を見返している。
*
風の音が身を切るようだ。葉の落ちつくした枝の間を吹き抜けてゆく。厚い雲が低く垂れこめ、境内には一条の陽光も届かない。
浄願寺の本堂から、読経の声が響いてくる。深く、重い、僧の声。よほど注意して聞かなければ、これがあの正人の声だとはわからない。永い修行を積んだ人のように、深淵を思わせる声……
読経に誘われたように、何処からか猫がやって来た。丸々と太った老猫。
猫はふっと顔を上げた。低い空から舞い落ちる、白いものを見つけたのだ。
猫は舌舐めずりをし、こちらを見てニッと笑った。ひどく淫蕩な笑いだ。それから向きを変え、のっそり階段を上って本堂の暗がりに消えた。
「お兄ちゃん、初雪だよ」斎子の声がした。
堂の静謐に降りつもるように、読経はいつまでも続いている――
我等愚痴身 曠劫来流転 今逢釈迦仏 末法之遺跡 弥陀本誓願……
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