02 降りるはずではなかった駅

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02 降りるはずではなかった駅

                              *  車窓から見えた風景と同質な、彩りのない町だった。風が埃を舞い上げている。通る人も車もまばら。まるで空虚な風にさらされて、町全体が退色してしまったようだ。バッグを提げて駅舎の前に立ち、正人は不思議な気持になっていた。どうしてこの町に降りたのかわからない。終点間近のこの駅で、ふっと何かに曳かれるように降りてしまったのだ。くたびれた横断幕がはためく田舎の商店街を前にして、彼は当惑していた。  目的のない旅ではあった。それにしても、この何もなさそうな町に来て、いったい自分はどうするつもりなのだろう? 「どうかしたかね?」  ふいに声をかけられ、振り向くと駅員が怪訝な顔をしていた。 「いえ」  首を振り、とにかく歩き始めた。他人が気遣うほどポカンとしていたのだろう。  駅前広場を渡り、遅い昼食をとるために手近な食堂の暖簾をくぐった。  店内には誰もいなかったが、来客を知らせるチャイムが鳴り、奥から中年女が出て来た。昼寝をしていたらしい。乱れた髪を手で直している。  正人は親子丼を注文して、卓上に畳まれている新聞を開いた。  一面は、急展開した女児誘拐事件の記事で埋まっていた。  行方不明になっていた六歳の女児は、M川上流で遺体で発見された。遺体は切断され、数か所の大岩の隙間に遺棄されていた──  重い塊を呑んだような気持になる。脳裏を嫌な映像がよぎる。それを振り切ろうと、音をたてて別な面を開いた。憂鬱な一人旅のさ中に、こんな記事はごめんだ。ところが、別の面からも悲惨な見出しが飛び込んでくる。テロ、土砂崩れ、交通事故、死者多数……  こんなに――と思った。こんなにたくさん酷いことが起こっているのだ……この世界の中では。毎日まいにち飽きもせずに……  はじめてそのことに思い至ったように、正人は茫然とした。  できあがった丼が届いたが、食欲はとうに失せていた。  女は隅のテーブルにつき、壁に据え付けられたテレビをリモコンでつけた。  昼下がりのワイドショーが、当の誘拐殺人を報じていた。  被害に遭った女児がパネル写真の中で微笑んでいる。おかっぱの丸顔はすこし恥ずかしそうだ。  その横で、キャスターが深刻な顔をして喋っている。  映像が切り替わる。遺棄現場の川が映る。吊り橋と急流。冷たそうな水が、遺体が押し込められた巨石の辺りを弾けて流れる。  また映像が切り替わる。ボカシの入った両親の姿だ。泣き声が響く。人はこんな声を出せるのかと思うほどの、(からだ)の奥底から絞り出される慟哭。  正人は目を逸らせた。耳も塞いでしまいたい。  頬杖をついて見ていた店の女も、耐えかねたのかチャンネルを替えた。  いきなり笑い声が溢れる。画面いっぱいのヒナ壇に並んだ芸人たちが、わざとらしく笑いこけている。笑い声は、ひどく寒々しく店内を充たした。  重い塊は胸に居座ったままだ。丼も妙に薄味でまずい。正人は箸を置いた。  半分残して席を立つと、女は非難するように見た。 「この町で何か見るものはありませんか?」財布を出しながら訊いた。 「さあ、見るもんなんかないねえ」 「何でもいいんですよ。たとえばお寺とか」 「お寺はたくさんあるけどねえ」面倒くさそうに言う。目はテレビに向いたままだ。 「おつりはいいです」  昼寝の邪魔をした詫びのつもりで言うと、女ははじめてニタリと笑った。 「そうそう、おもしろいお寺があるよ。若い住職が若い娘を囲っているお寺が」  歯を剥いて笑いながら、そこへ行くためのバス停を教えてくれた。  べつに寺など見なくてもよかったが、何かしなければこの町で下車した意味がない。正人はバス停に向かった。  どの商店にも客の入りはない。ぼんやりした午後の陽射しの底で、町は眠っている。  バス停のベンチに掛け、〈浄願寺〉と検索してみた。これから向かう寺だ。  スマホに表示されるのは所在地とマップだけ。たいした寺でもないらしい。  やがて、古びた車体を揺らしてバスが来た。車中には、茶色くしぼんだ老女が二人、寄り添うように座っていた。  誘拐殺人と丼のせいで気分が悪い。正人は座席で(からだ)を丸め、窓側にもたれた。  バスは動き出した。  のんびりした揺れに任せて目を閉じる。居眠りしたところで、行先は終点だ──  いきなり、運転手が叫び声をあげた。クラクションを連打するように鳴らす。ブレーキがかかる。  何事かと窓の外を見た目に、その事故は飛び込んできた。  直前を走る大型トラックが、交差点を左折した後輪で男の子の乗った自転車を巻き込んだ。巨大なタイヤが、子供と自転車を引きずり込む。その十秒にも満たない時間が、正人の視界で緩慢に展開した。  悲鳴があがる。トラックの巨体がスリップして止まる。路面に、べっとりと血の帯を曳いて。  並んだ商店から人が出て来る。叫び声が交錯する。  バスは再び動き出した。トラックを大きく迂回してゆく。  母親らしい女が、トラックの下にもぐり込むようにして、子供の名を呼び続けている。  〈惨劇〉は正人の横を通り過ぎ、後方に小さくなっていった。  遠くからサイレンが聞こえた。 「助からんなあ」老女の乾いた声。 「わたしらみたいな年寄りを生かしておいて、子供を連れていくなんて、神さんもずいぶん不公平なことを……」 「神も仏も、おらんのかなあ」  老女の一人が、後ろを向いて掌を合わせた。  指先が冷たい。顔も冷たくこわばっている。その顔を窓の外に向け、バスに揺られていった。  町を抜けて田んぼが拡がる。道は緩い上りになる。正人の目は無感動に、山間へ向かう田舎の景色を映していた。  ぼんやりした想いが頭の中を漂いだす。それは、ゆっくりと輪郭をあきらかにして、仏像の顔を描く――  また来た……  その顔は、幼い頃から、ときおりもの想いの中に現れて、内側から彼を見つめてきた。仏像の多くはぽってりと厚い唇をしているのに、想いの中にいる仏の唇は不自然なほど薄く、鋭角的に切れ上がり、独特の微笑を作っている。その微笑は、〈どんなことからでも人々を救ってやる〉と言わんばかりに不敵なものに思えた。  〈薄い唇の仏像〉を確かに何処かで見たはずなのだが、覚えていない。家の近所の寺や菩提寺にある仏像の顔は、想いの中の仏とは違っていた。幼い頃、旅先の寺で、親に抱かれて見たのかもしれない。そう訊ねてみても、母は、そんな事はないと言った。おまえが小さな頃は、忙しくて旅行どころじゃなかったよ。それに、わたしもお父さんもお寺巡りは好きじゃない。仏像に興味があるなんて、おかしな子だねえ。  図書室で仏像の写真集などを開いてみても、〈薄い唇の仏〉はどこにもいなかった。  怖い夢の中にいたとき、その仏に助けられたのかもしれない。自分の守護霊みたいなものかも──そんなふうに、子供の正人は自分を納得させていた。  大きくなるにつれて、想いの中に〈薄い唇の仏像〉が現われる事はなくなり、いつの間にか忘れていた。  それが今日、列車の居眠りに現われた。そして今また意識の中に座り、微笑んで、彼を内側から見つめている。  助けて――胸の中で、その不敵な微笑に訴えた――あなたなら救えるはずだ。この悲惨さを。死んでいった子供たちの魂を、せめて天国へ運んであげてください。このままでは、あまりに(ひど)い…… 「あんた、どこまで行くんかね。この次で終点だよ」  運転手に訊かれ、もの想いが破れた。我に返ると乗客は彼一人になっている。 「ええ、終点まで行くんです」 「この辺りの人じゃないね。浄願寺の住職の知り合いかい?」 「ええ、まあ……」  見物に、とは言いかねた。  上りの道は狭くなり勾配がきつくなる。山の奥に進んでゆく。そして終点。どんづまりの広場にバスは乗り入れた。 「帰りは二時間後が最終だよ」  降りる正人に運転手は教えてくれた。  バスは広場で車体をきりかえす。行先表示が〈──駅ゆき〉に替わり、来た道を戻って行った。
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