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04 山寺の夜
*
寺の食事といっても家庭のものと変わらない。ただ、夕食の煮込み料理は二つの鍋で出てきた。青木の食べる分が別になっている。肉抜きなのだ。
「ここへ来てから肉が嫌いになってしまって・・・・・・坊主らしいといえば、それくらいかな」青木は弁解のように言った。
正人の歓迎会ということでビールの栓が抜かれ、食事が終わるとカラオケまで登場した。
「慰労会で使うことがあるの。びっくりした?」斎子は笑う。
マイクを握り、少女は張りのある声で歌いだした。流行のナンバーだ。キレキレのフリツケで肢体が舞う。
「あの、外に聞こえたら、具合悪くない?」正人はハラハラした。
「聞こえる範囲に誰も住んでやしないわよ」斎子は意に介さない。花弁を思わせる唇から、次々に歌が繰り出される。少しかすれたソプラノが艶かしい。
青木は黙って微笑んでいる。
酒がまわり、いつしか正人もマイクを握っていた。爽快な気分だった。美少女の肩に腕を回してデュエットする。別人になったような高揚感。急ごしらえの不遜な自信が、躰中を駆けめぐっていた。
さすがに住職は騒がない。目元を染めて壁に寄りかかり、二人の騒ぎを眺めている。
正人は思いついてスマホを取り出した。「写真撮りましょうよ」
青木は手を振って遠慮する。「わたしはいい。二人を撮りますよ」正人からスマホを受け取り、「歌っているところを撮りましょう」そう言ってレンズを向けてきた。
促されるまま二人で歌いだした。斎子は調子を合わせて正人にもたれる。頬を寄せてピースする。そんな二人に向けて何度もシャッターが切られた。
青木は立ち上がり部屋を出た。それきり戻らなかった。
「青木さん、どこへ行ったんだろう?」歌の切れ目に正人が問うと、
「もう寝ちゃったんだよ、きっと」酔いに潤んだ目で斎子は言った。
テーブルに置かれたスマホを取り、撮ったばかりの画像を確認した。しっかり撮れている。正人にくっつくようにして、美少女がにっこり笑っている。これで友人たちに自慢できる。胸の内でガッツポーズした。
「いっぱい撮れてるね」横から覗き込んで斎子が言った。
夜が深くなっていた。いっとき騒ぎが途切れると、山中の底無しの静けさがどっしり居座るようだ。急に白けた雰囲気が漂った。
「鈴佳さんも眠くなった? 疲れてるんでしょ?」
「疲れてなんかいないさ。まだ、これからじゃないか。呑もうよ!」
楽しい夜をこれきりにしたくない。
「お酒、強いね。未成年だろう?」冷酒を注ぎながら訊くと、斎子は曖昧に笑った。
「ねえ、きみ、いくつなの?」
「さあ、いくつかしら。鈴佳さんより歳上かもしれないよ」
「まさかぁ」
十六、七に見える。が、ときおり、瞬間的にだが、横顔に大人の女を感じることがある。不思議な印象のよぎることがある。
……家出娘だろうか。
「青木さんとは、どういう関係なの?」酔いにまかせて訊いてみた。
ふふ。斎子は笑った。「気になる?」
「気になる」
「ひ、み、つ」どきりとするような艶めいた目を流す。酒臭い息まで官能的だ。
それから、どのくらい酒が続いたかわからない。いつの間にか意識はあやしくなり、気がつくと便所で吐いていた。
斎子の手が背中をさすってくれている。
冷や汗に濡れそぼった嘔吐感の中で、何故か昼間の交通事故の光景が蘇った。
轢かれた子供の顔。顔を見たわけではないのに、その子の顔が、助けて! と叫んでいる。
「あんな小さな子がトラックに巻き込まれたんだ。引きずられて……」正人は泣き声になった。
見たはずのないその子の顔の幻は、ぐにゃりと変形し、誘拐された女児の顔に変わった。そしてまた、ぐにゃり。今度は姉の子の顔に。彼にまとわりつく幼い笑顔に。
正人は、幻を払うように頭を振った。今度はあの可愛い甥が、酷い事故に遭うような不吉な予感がしたからだ。
無事に生き長らえている事が、奇跡のように思えてくる。日常茶飯な惨事の犠牲者の順番が、明日にでも自分のまわりにやって来そうな気がする。穏やかにひっそりと暮らしている、自分たち家族の処へ。
わけのわからないことを呟いて、正人は躰を震わせた。
「やさしいのね、鈴佳さん……」斎子の声が耳元に聞こえる。
正人は斎子の手を握った。その手の柔らかさだけが、僅かな救いのような気がした。
*
ひどい渇きで正人は目を覚ました。頭の芯に鈍い痛みがある。
ああ、ここはお寺の中だった。
見慣れぬ天井の木目を仰ぎながら、ようやくそれを思い出した。
水を飲みに起きようとして、ギョッとした。同じ布団の中に誰かの躰がある。掛け布団を剥ぐと、隣りで斎子が身を丸めていた。
「やん、寒いじゃない。まだ夜中よぉ」彼女は薄目を開けて抗議した。
正人はあわてて掛け直してやり、自分のほうは布団からとび出した。
なんだこれは? どういうことだ?
懸命に記憶を呼び戻そうとしても、便所で這いつくばって吐いたところまでしか思い出せない。
その後どうなったのか? おれは、この娘に何かしたのか?
朦朧とした頭で思い巡らしていると、ヒョイと布団が持ち上がって、斎子が顔を出した。
「寝ないの?」
「え? ああ。きみ、あの、お兄ちゃんに叱られない?」
斎子はキョトンとした顔をして、それから笑いだした。
「あなたをここまで運んできて、そのまま眠りこんじゃった」
斎子は、あくびをしながら布団を出た。
「お兄ちゃんに叱られない?」彼の口真似をした。そしてまた笑った。「あたし、邪魔みたいね。じゃあ、おやすみなさい」
ストンと襖を閉めて出て行った。
ポカンと見送った正人は、躰の力が抜けてしまった。
何をやってるんだ、おれは……
据え膳食わぬどころか尻込みしている。
新しい女と寝たことを、いつも正人に自慢する友人の顔が浮かぶ。あいつなら、あっさり斎子をモノにしたはずだ。
口真似した斎子。彼女は、女に指を触れることもできない男を嗤ったのだ。
歳下の女に性の未熟さを嗤われたという思いが、胸の内を屈辱で火照らせた。
――こんなことだから、二十二にもなって、まだ女も知らないでいる……
今さら追いかけるわけにもいかない。着たままだった服を脱いで布団に戻った。そこには、斎子のぬくもりが残っている。ぬくもりに名残惜しく手を伸ばし、自分のふがいなさにため息をついた。
襖の滑る音がした。
ふてくされていた正人は、再び開いた襖を信じられない思いで見つめた。
闇の中に斎子が立っていた。
「喉、渇いたでしょう? 水持ってきた」
斎子は座り、受け皿に載ったグラスを畳に置いた。中の氷がカランと踊った。
正人は半身を起してグラスを取り、喉を鳴らしてひと息に干した。そんな彼を斎子が見つめている。
どこから来る光だろう? 窓からか? 斎子の輪郭が光を帯びて見える。昼の光の残滓が、すべて彼女に集まったかのように。ほの白い顎の線と柔らかな内腿の線が、闇に浮き上がっている。顎の線は幼いものなのに、内腿のそれは成熟した女のものだ。ちょっと切れ上がった唇が瑞々しい花びらのように濡れている。瞳は彼を見つめたまま、瞬くこともない。
斎子の腕をつかんだ。粗野な力が柔らかな肉にくい込む。そのまま曳くと、意思のない人形のように、少女の躰はあっけなく夜具の中へ崩れた。グラスが倒れ、氷が転がった。目の前が、カッと熱くなった。正人は、あさましいくらいにむしゃぶりついていった。このとき斎子は、ころころと鈴のように笑っていた。
着ているものを剥ぎ取るにつれて、未知の雪原が拡がる。着痩せするのか、年の頃に似合わぬ豊かな乳房がこぼれる。
「痛い。そんなにあわてないで」
そう言われたところで、女の躰の扱い方など知らない。
「初めてなの?」
正人は卑屈に頷いた。
「そう」斎子は入れ替わって上になった。彼を見下ろす顔が急に大人びる。「何もしなくていい。じっとしてて」
少女は男を裸にし、指と舌を奔らせた。垂れた髪が腹を撫でる。ときおり上目遣いに男の表情を窺い、娼婦のように性感の上昇を読み取ろうとする。正人はただ横たわって、少女の技巧に声をこらえた。
操られるまま、感覚はひたすら上昇を続ける。やがて熱く湿った暗がりが包み込んでくると、昇りつめた感覚はもう行き場もなく、あっけなく灼熱に変わって散った。正人は、溺れる者のように、少女の首にすがりついた。
灼熱が走り抜けた後には、穏やかな弛緩が訪れた。斎子が、ゆっくりと、首にまわされた男の腕をほどいた。
「もうすぐ、夜が明けるね」斎子は言い、立ち上がって、棚から煙草と灰皿を持ってきた。
布団に腹這いにもぐり込んでライターを点ける。ぽっ、と柔らかな横顔の線が浮かび上がる。
「吸う?」咥え煙草で訊く。
「うん」
正人は煙草をやらないが、こういうシーンでは、吸わないとサマにならないような気がした。
辛い煙が喉にしみる。ゆっくり吐き出しながら、自分の格好はサマになっているだろうか、と思った。
「ここにしばらく居るんでしょう?」
「学校は、もう出席しなくてもいいんだけど……でも、長居していいのかなあ」
「いいのよ」
「青木さんも?」
「うん」
「青木さんは困るんじゃない?」
斎子は笑った。少女っぽい笑いが、裸の肩に不似合いだ。
「困らないでしょ。悟り、開いてるもん」煙草を押し潰す。「ねえ、あたしを奪う気にならないの?」
「え? ああ、もちろん」
思いがけない言葉に胸が躍りだす。得体の知れない娘だが、このチャンスを逃したら、二度とこれほどの女性には縁がないような気がする。
「朝はゆっくりしてていいのよ」
斎子は脱ぎ散らかした衣類をかかえて立った。
白い裸が廊下の闇に溶けるように部屋を出ていった。
スマホが枕元に置いてある。手に取る。斎子の画像を見たかった。だが、電源が入らない。宴会のときしっかり充電したのに、何度試しても画面は真っ黒のままだ。
壊れた? ため息をつく。でも修理すればいい。画像は消えていないはずだ。友人たちに見せる証拠は絶対必要だ。
仰臥して頭の後ろに手を組む。布団の中で躰を伸ばす。頬が緩みきっているのがわかる。自分は今、ひどくだらしない顔をしているだろう。至福が全身を満たし、口笛でも吹き鳴らしたい心境だ。今のことは夢じゃない。確かに起こった現実だ。何度も自分にそう言い聞かせた。旅のみやげ話ができたことが、何より嬉しい。自慢話をするときの話し方さえ考えた。すると、つい先ほどの熱い絡み合いが思い返されて、陶然となった。
鳥の声が聞こえている。
窓の闇が薄れている。
心地よい充足感に包まれたまま、やがて彼は豊かな眠りに埋没していった。
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