42人が本棚に入れています
本棚に追加
05 青木
*
翌日から浄願寺での暮らしが始まった。午前中は掃除を手伝い、午後は寺の書物を読んだり座禅の真似事をしたりして過ごした。
寺は静寂の中にあった。風が疾走り、雨が軒下に窪みを穿つ。落葉は息を殺して重なり合う──自然の呼吸音は、静寂をより研ぎ澄ます。
これまで暮らしてきた世界の喧騒が嘘のように思えた。
この町で下車した気まぐれは、いったい何だったのだろう? だが今は、その気まぐれに感謝している。おかげで斎子とめぐり逢えたのだ。
初めての日以来、彼女は夜ごと正人に当てられた寝室を訪れる。暮れれば気温が下がり、奔放な営みは暗渠のごとき布団の中で繰り返される。
ところが昼の光の中に、夜の斎子はいない。煙草を手にすることもなく、何事もなかったように幼さの残る頬で微笑する。恥じらいさえ滲ませて。
まるで二人の斎子がいるようだ。謎めいたコントラストは、夜の暗渠に更なる昂りをもたらす。
正人は搦め捕られていた。仏教書などを開いて長い午後を過ごしながら、息苦しいほどの思いで待つ。闇が少女を変貌させる底なしの夜を。
一方で、青木は変わらず平然としていた。二人のことを知っているのか知らないのか。たとえ知っても、そのままだろう――青木を見ていると、そんな気がしてくる。俗事に何の関心も示さない。昏くて細い目は、何処か、遥か遠くを見つめている。青木と斎子に男女の関係があるにしても、男はそれほど執着していないように思えた。
そんな超然とした青木のようすも、いっとき微妙に崩れることがある。午後から離れの書院に籠るときだ。何か精魂込めた作業でもしているのか、夕刻になってそこを出て来る姿は、いつもひどく憔悴していた。
何をしているのだろう?
不審に思った正人だが、深く考えることはなかった。想いは斎子ばかりに占められて、それ以外は上の空だった。
こうして、これまでの日常とは、あまりに異質な日々が過ぎていった――
*
寺に来て六日が過ぎた。遅い午後、裏庭に面した居間で正人は本を開いていた。経典の現代語訳と地獄極楽の画集だ。
陽が当たって暖かい。秋の微風が頬を撫で、うとうと居眠りしかけていた。
青木が部屋に入って来た。畳が踏まれる微かな音で、正人は我に返った。
「どうです。わかりますか?」
青木に訊かれ、照れ笑いを浮かべた。
「信心がないから、すぐ居眠りしてしまいます。でも、お経って、思っていたよりつまらないことが書いてあるんですね」
斎子との関係がうしろめたく、なんとなく青木の視線を避けている。
「つまらないですか?」
「ほとんどが極楽浄土と仏に対する称賛でしょう。言葉の限りを尽くして、すばらしいって褒めてる。あの時代の民衆に浄土という夢を与える必要はあったんだろうけど、コマーシャルもくど過ぎると嫌味でしょう?」
「コマーシャルか、そいつはいい」青木は笑った。
「でも、極楽というのは、あまりおもしろい処でもなさそうですね」正人は、座卓に拡げた大判画集の極楽絵あたりを繰った。
「欲を満たす事が、すなわち快楽です。ところが欲というのは、苦痛とか嫉妬とか、人間を困らすものを土壌にしなければ生じない。つまり、苦痛や嫉妬のない極楽には欲もまた存在しない。だから快楽もない」
「何もない世界か。つまらなそうだな」
「つまらないという気持も存在しないのですよ。それを涅槃という」
「涅槃か……想像の及ばない世界だ」正人は、虚無に満たされたような極楽絵にじっと見入った。「苦しみも怒りもない、妙なる音楽が流れ、光に満ちた世界。そこで微笑を浮かべ、ただじっと座っているだけ。どうも説得力がないな。こんな出来過ぎの老人ホームみたいな極楽に行くことが、どうして至福だなんて言えるんだろう。実際に見た人が描いたわけじゃないから、しょうがないけど」
青木は座卓に肘をつき、ぐっと躰をのり出してきた。「そのとおり。いくら頭を絞ったところで、人間には苦痛や煩悩のない世界など想像できはしないのです。何故なら、それがあまりにこの現実とかけ離れた世界だから。無理やり極楽を創作したところで、結局、説得力に欠けた絵にしかならない。では、地獄絵はどうです? 極楽に比べて地獄の出来ばえはどうです? リアルだとは思いませんか?」
「そうですね……」
青木の細い指が画集を繰って、地獄絵のところを開いた。「極楽で何もしないで座っている人の至福は理解できなくても、地獄で火に炙られたり串刺しにされている人の苦痛は、実感として理解できるでしょう?」
「ええ。苦痛というのは身近なものだから。地獄絵って、ちょっとした風刺ですよね。これなんかバラバラ殺人でしょう」
画集は〈解身地獄〉の頁が開かれている。獄卒が凄まじい形相で包丁をふるい、俎上の罪人を切り刻んでいる。
「殺した人間を切断するとき、人の顔は本当にこんな鬼のような顔になるのかもしれない。それから、これ――」正人は〈衆合地獄・刀葉林の景〉の頁を開いた。
剃刀のように鋭い葉を持つ樹の上に美女がいて、罪人を誘惑している。罪人は美女を求めて樹を登るが、刀のような葉が彼の躰を切り裂いてしまう。やっと樹上に辿り着くと、いつの間にか美女は地上にいて彼を呼ぶ。彼は夢中で降りる。刀葉が肉をずたずたに裂く。降りると、また美女は上にいる。これを際限なく繰り返し、罪人は自分の身を切り刻んでしまうという地獄だ。
「これは、色情に溺れて身を滅ぼす男の姿を、実にうまく描いてますよね」
正人がそう言うと、青木は満足気にうなずいた。
「極楽はこの世界とまったく違う世界だから、それを描写するためには想像力を働かさねばならない。しかし地獄を描くなら、想像力など必要ないのです。あなたは風刺と言ったが、風刺どころか、地獄はこの世をありのままに描いただけなのです」
正人は顔を上げて青木を見た。
「業火に焼かれる苦痛。獣に喰いちぎられる苦痛。刺されたり、溺れたり、潰されたり、炎熱、極寒――地獄で展開される苦しみは、すべてこの世にある。いや、この世にない苦しみは地獄にも存在しない」青木の瞳の深淵が、じっと正人を見つめている。「地獄がほかにあるのではない。この現実こそが地獄なのです」
「そんな……独断と偏見に満ちてるなあ。たしかにひどいことも多い世界だけど、そういう考えは暗いんじゃないですかぁ」正人は笑おうとしたが、深淵に見つめられると微笑さえ凍てついてしまう。「ここが地獄なら、死後には極楽しかない。人は皆極楽へ行けることになる。悪人も。そういうことですか?」
「極楽とは無です。一切の無。限りない停止。仏像が浮かべる、あの独特の虚無的な微笑は、無の中に棲む者のものです。有と無。この現実――有が地獄であり、無が極楽なのだ。遠い昔、おそらく釈迦はそのことに気づいたのでしょう。人はなぜ苦しまねばならぬのか。それは、この世が地獄にほかならなかったからです」
そのとき、廊下に足音がした。斎子だ。青木は全身から緊張を解くようにして、のり出していた躰を退いた。
「なあんだ、二人ともここにいたの。ヨーグルト食べない? ブルーベリィジャムかけたやつ」
盆を卓に置き、スプーンの添えられた皿を配った。
「わたしは食べたくないな、悪いが。……すこし書院にいるから」青木は立ち上がり、居間を出て行った。
正人は皿を取り、紫と白とをスプーンで混ぜ、甘酸っぱい味を口に運んだ。
「どうしたの? 憂鬱そうな顔して」斎子が顔をのぞき込むようにして訊いた。
「青木さんて暗そうな人だと思っていたけど、やっぱり暗いんだなあ」
「暗い話、してたの?」
「地獄というのはこの世のことなんだって。それがあの人の見解らしい」
「ふうん。地獄に、あんないいことあるかしら……」
斎子は意味ありげに笑い、夜のことをほのめかした。
「なるほど。そうか。極楽とは、きみの躰にあったのか」正人は調子を合わせた。
少女は無邪気にヨーグルトを食べている。自分の皿を空にし、青木の分に手をつけたところだ。
横座りした太腿が短いスカートからのぞいて見える。はちきれそうな豊かな生命力の輝き。生きていることが楽しくてしようがない娘盛りだ。それを目にしたとたん、先ほどの青木の話がばかげたものに思えてきた。生命を謳歌する若い娘の躰は、すべての幸福を孕んでいる。ほら、極楽はここにあるではないか――
見つめられているのに気づいて、斎子はこちらを向いた。紅を曳かずとも光る唇が、すぐそこにある。こらえきれずに柔肩に手をかけると、斎子はしなやかに身をよじって逃れた。
「だめ、夜まで待って」
艶っぽい目で笑う。大人びた色香がよぎる。正人は舌打ちした。
「青木さん、おれたちのこと気づいているんだろ?」
「そうかも」
「それで、あんなおかしな話をしたんだろうか?」
「あなたを追い出すために? 違うわ」
「でも、もう何日も居候してる。そろそろ嫌がられてるのかもしれない」
「そんなことないよ。お兄ちゃん、話し相手ができて喜んでるわ。あの人、寂しいのよ」
「そうかなあ…… 長く居させてもらうなら、家に連絡しとこうか……」
斎子は、あきれたようにため息をついた。
「鈴佳さんって、そういうところがダメなんじゃない?」怒ったように言う。「いつ戻るかわからないと言ってきたんでしょ? どうしてもお母さんから離れられないみたいね」
「わかったよ。怒るなよ。居候が申し訳ないと思ってるだけなんだよ。そう言ってくれるなら、もうしばらくご厄介になるか。……あれ、どうしたの?」
斎子はあらぬ方を見つめていた。その目が恍惚とした光を帯びている。正人は彼女の視線を追った。
風が、裏庭の樹々の葉を散らしている。沈みゆく夕陽の光を幾条も浴びて、葉は黄金色に輝きながら舞っている。不思議な夕暮れに彩られた庭の中で、時が機能を失ったスローモーション映像のように、黄金の乱舞はいつまでも止むことがない。
斎子は立ち上がり、引き寄せられるように縁側へ歩いた。正人も立った。彼女と同じように、目の前で輝きわたる夢幻の光景に魅せられていた。
「すごい……」つぶやき、斎子の肩を抱いた。斎子はうっとりと正人の胸にもたれた。
こんな美しい世界が、地獄でなどあるはずがない。
先ほどの青木の禍々しい言葉は、絢爛たる光景の中で、急速にその意味を失っていった。
最初のコメントを投稿しよう!