06 見なければよかったもの

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06 見なければよかったもの

                 *  その夜、斎子は訪れなかった。訪れなかったのは、正人がここへ来てはじめてのことだ。  浄願寺の夜は早い。たいていは八時に、それぞれの寝室へ入る。斎子が忍んで来るのは九時頃だが、その夜は十時を過ぎてもやって来なかった。  布団の中でまんじりともせずに待ちながら、正人は昼間のことを思い返していた。  この世が地獄だと言った青木。  やはり青木さんは、おれと斎子のことを知って怒っているのかもしれない。僧侶だといったところで即席の、たいして歳も違わない、ただの男じゃないか。  嫉妬に狂って斎子を貪る青木の姿が、唐突に脳裏に浮かんだ。  床から起き出し、パジャマ代わりに借りた作務衣姿で部屋を出た。  夜のかなたに伸びる廊下が黒光りしている。足音を忍ばせて進んだ。角を折れて行くと、庫裡と書院をつなぐ廊下が右横から接続している。その手前に斎子の寝室がある。青木の寝室は廊下の接続部を越えてさらに奥だ。  斎子の寝室からは就寝灯の淡い明かりが洩れていた。襖が閉じきっていない。  眠っているのか?  感覚を澄ます。  真空のような静寂。が、その底に低く漂うものがある。押し殺した、場違いな、昂った気配。  息を殺して寝室に寄り、襖に顔を寄せた。  聞こえる。今度ははっきりと。想像したとおり、男と女の蠢きが。  ――なにが坊主だ。肉は喰えなくても女は抱けるのか。ここが地獄だと? おまえは地獄で何をしているのだ。  襖の隙間に爪を掛けた。指先が震える。滑りの良い襖は音もたてず、さらに数ミリ開いた。そこに顔をつける。ゴクリ。喉が鳴る。  布団の盛り上がりの中で、青木が斎子にのしかかっていた。  青木は喘いでいた。ところが奇妙なことに、斎子は人形のようにじっと横たわっているだけ。青木は苦しそうな顔をしている。肌寒い夜更けに、額に汗が光っている。斎子はそんな男を、冷やかに見上げている。 「ちくしょう……」呪うように言い、青木は掛け布団をはねのけた。  男と女の白い裸が、弱い灯りの下で露わになる。  青木は棒状の物を手に取った。  正人は目を疑った。青木の手に握られた物は、男性を模した性器具だ。  そんな物を前にしても、斎子の無反応は変わらない。  青木の頬がひきつれたように歪む。少女の下肢を割り性器具を使い始めた。  正人は拳を握りしめた。じっとり湿っている。喉元に重苦しいものが拡がる。  不能なのか。  この世を地獄と形容した青木の心情が垣間見えた気がした。  やがて、石のようだった斎子の躰に、いのちが宿る。腹が波打ち吐息が洩れる。正人の腕の中にいるときの、唇が笑うように歪む――あの顔をしているはずだ。  正人は性的な興奮をまるで覚えなかった。目の前に繰り広げられる光景は、淫らというより陰惨だった。  斎子は声をあげた。押し殺したか細い声。それが静穏な夜を破った。こうして、奇怪な男女の交わりは、女のほうが一方的に終わりを迎えた。  生命(いのち)の歓びに充たされ、ぐったり弛緩した豊饒な肉体を前に、男の貧弱な躰がひざまずいている。  やがて青木は我に返ったようにフラリと立ち上がり、衣類をつけはじめた。  正人は身を退き、先の廊下を曲がって姿を隠した。自室の方の角へ戻るには、距離があり過ぎた。奥へ進む。突き当りは書院。引き戸を開けて滑り込む。青木が毎日籠る部屋に、正人は初めて入る。  窓から月明かりが射す室内は、壁面のほとんどを書架が占めていた。そこに一分の隙もなく本が詰まっている。  すごい……  おびただしい本の群を見廻した。  すべて宗教書なのだろうか?   青木が毎日これらの本を読んでいるのなら、歳不相応な超然とした態度も、なんとなく理解できる気がした。  ぼんやり書架を眺め廻していたが――突然、その目が止まった。  宗教書なんかじゃない!  並ぶ本の背文字を、あわただしく読んでゆく。  〈カタストロフ――世界の大惨事〉、〈世界拷問史〉、〈人間魚雷回天〉、〈人間が人間に対して/アウシュビッツの証言〉、〈中世の刑罰に見る残虐〉、〈虐められるために生まれた――小児虐待の記録〉……すべてがそのような本だ。人の苦痛を記述したものばかり。〈ヒロシマ・ナガサキ〉と題した写真集や中東の内戦を扱ったグラビア雑誌などもある。  蔵書は青木一人が集めたものではなさそうだ。かなり古いものが多い。とすれば、ずっと以前から、この寺に住んだ僧たちが収集してきたのか?  ぞっとした。この寺の恐ろしい秘密に触れたような気がした。  よろりと後ずさった脚が机に当たる。机上の本立てには、スクラップ帳が並んでいる。  その一冊を抜き取ってみた。  新聞や雑誌の切り抜きが貼り集めてある。  そこに集められたものも、やはり惨劇の記録だった。事故、殺人、心中、闘病……人間の歴史が、あたかも惨劇の歴史であるかのように、貼り付けられた記録たちは語る。拾い読みするうちに、胸が悪くなってくる。最後の頁には、記憶に新しい女児誘拐殺人の記事があった。そこで収集は中断していた。  突然、背後で部屋の戸が開いた。
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