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07 猫が嗤う
正人は、冷水を浴びせられたように硬直した。振り向くと、戸口に青木が立っている。寝間着姿ではなく、きちんと法衣に着替えている。
「あの、寝つけなくて、ふらふらこんな所へ……すみません、泥棒みたいな真似をして」あわてて弁解した。
青木は部屋の明かりを点けた。いつもの無表情。先ほどの動揺を残してはいない。
「あの……」
何か言おうとしたが、青木は、無断で書院へ入ったことを咎めるつもりはなさそうだ。独り言のように語り始めた。
「スクラップ帳を作りながら、世の中には、よくもこれだけ悲惨なことが起こるものだと驚きました。ご覧のとおり、この部屋には世界中の惨劇が集められている。これらすべてが、この世界が地獄であるということの証明です」青木は昼の話の続きを始めた。
「世界には――」声がかすれた。正人は唾を飲み込んだ。「――楽しいことだって、たくさんありますよ」
「欲を充たすのは楽しい。しかし、それが罠だ。欲を充たせば、それは次の欲を生む。欲は充たされぬ苦痛の種となる。際限のない欲のために、際限のない苦しみが続く、たとえ欲のすべてを充たすことができたとしても、そこに待つのは退屈という名の苦痛でしかない。どうです、地獄のメカニズムとは、うまく出来ているではありませんか」
「では、生きているより死んだほうがいいと……」
「ええ。しかし、この世に未練や執着を残して死んでゆくと、それが因となり、再び生まれ変わってしまいます。死ぬと地獄へ行くというのは、この世へまた生まれて戻ることを言うのです。輪廻転生。ご存じでしょう。ここでの刑罰は終わることがない」
「刑罰?」
「ここは魂の流刑地なのです。我々はすべて罪人なのだ。何処かで何かの罪を犯し、この地へ流された。いや、〈存在する〉こと自体が罪なのかもしれない。そして、この流刑地で、傷つきやすく、あらゆる苦痛に敏感な肉体という拷問衣を着せられ、こうして日々責め苦を受けているのです」
目の前で独善的に厭世論を語る男に、正人は少し恐怖を覚えた。こいつは狂人ではないのか?
「わかりましたよ。それじゃあ、我々はいったいどうすればいいのですか?」
「煩悩を断ち切り、執着を捨て去る。つまり、悟りを得るのです」
「悟り?」
正人は拍子抜けして、あやうく笑いだすところだった。これでは、まるで新興宗教の勧誘ではないか。
「ここが地獄であることを認識し、再びこの世に生を受けることを拒絶するのです。この世に存在するものに対する執着や欲望は、すべて輪廻の罠と知り、それを断ち切る。エネルギー保存則の罠から解脱するのです。そうすれば、死して再びここへ還ることはない。極楽という名の無へ、涅槃の中へ消滅してゆくことができる。これこそ釈迦が到達した境地なのです」
身勝手な説法を聞いているうちに、正人の内に怒りが湧いてきた。
「あなた自身、どう考えようと勝手だ。でも、苦しくとも、笑顔で逞しく生きている人たちがいる。そんな病的な考えは、健全な人たちの精神を汚すだけだ」
「健全? ただ無知なだけですよ、大衆は」
青木は書架から本を抜き出してきた。それを机上に開いた。第二次世界大戦中、四百万人が虐殺された、ナチスのアウシュビッツ強制収容所に関する記録だった。
「わたしは、歴史上、これ以上の地獄はなかったと思っている。地獄絵と比べてごらんなさい。同じじゃないですか。いや、アウシュビッツに比べたら、地獄絵のほうがまだましだ……」
青木の目から涙が流れていた。
アウシュビッツ――その名前も、そこで何が行われたかも、少しくらいなら正人は知っている。しかし、青木が頁を繰って語る詳細な事実の恐ろしさは、彼を心底震えあがらせた。狂信的なユダヤ民族絶滅を目的とした収容所の中は、まさに地獄以上だったのだ。
収容所へ送り込まれた人々は、旅の疲れをいやすためと言われ、裸でシャワー室へ入れられる。子供を先頭に、女、男の順。乳飲み子を抱いた母親もいた。一回に二千人がスシ詰めにされ、そこへシャワーどころか猛毒ガスが噴射される。囚人たちは倒れる余地すらなく、立ったまま苦悶し絶命してゆく。看守は、同じ囚人にこの様子を覗き窓から見せ、絵に描かせた。その絵が目の前の頁に載っている。死霊が揺れ蠢いているような、おぞましい絵……
ガス室だけではない。銃殺、拷問、人体実験、あらゆる死のかたちが、そこにはあった。狂気の極みのような殺戮の末、死体の脂肪は石鹸に、頭髪は絨毯に加工された。剥肉地獄のごとく皮膚を剥がされ、壁飾りにされた美少女もいた。
遺骸はコンベアに乗せられ、まだ息のある者まで、かまわず焼却炉へ放り込まれる。こうして、一日二万人あまりが煙となった──
青木が繰った頁に、これから銃殺される家族の写真が現れる。老婆を中心に数人の家族が腕を組んでいる。まだ幼い少女は顔を上げられず、肩をすくめて母親の陰に隠れている。そうしたところで、助かるはずもないのに……
地獄とどこが違う? 正人は心の底で呻いた。青木の言うとおりだ。これは地獄そのものではないか!
「アウシュビッツだけじゃない。地獄はどこにでもその正体を見せる。日本だって……江戸幕府のキリシタン弾圧、それに――」青木は憑かれたように饒舌になり、書架からさらに本を選び出そうとした。
「やめてくれ!」正人は叫んだ。「やめてくれ……もう、たくさんだ」顔面蒼白になっている。
書架を埋める本の群から、苦しみもがいて死んでいった人々の呻きが聞こえてくるようだ。
正人は口を抑えた。胸にわだかまっていた不快感が突き上げてきた。窓を開け、身をのり出して吐いた。
どこかで猫が鳴いている。サカリのついたような耳障りな声で。やっと〈真実〉に気づいたかと、人間二人の会話を嗤っているように聞こえる。ここへ来た日にカラスを襲った、あの猫かもしれない。
口を拭いながら、青木に向き直った。
「出ていくよ、今すぐ。あんたは変質者だ。この寺は狂ってる」
「あなたにはここに居てほしいんだ、鈴佳さん。手伝ってほしいことがある」
「うるさい!」
怒りか恐怖か、正人は鳥肌立っている。
「この寺には、たった一つ、衆生を救済する手段がある。とにかくそれを見てほしい」
青木は床の間の置物をどけ、どこかを押した。すると床の間の板が外れた。
「地下室にあるのです。来てください」
床の間から下へ隠し階段があるらしい。青木は下りてゆく。そこから顔だけ出して、「ここまで話を聞いたのです。あと少し、最後までつき合ってくれませんか」
哀願するようなまなざしに、正人は引き留められてしまった。
地獄から人々を救う方法? そんなものがあるなら、おもしろい、見せてもらおうじゃないか。挑むようにそう思った。
急な階段が、カビ臭い闇へ続いている。踏み板をきしませながら正人は続く。
先に下りた青木が電灯を点けた。
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