08 救済するもの

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08 救済するもの

 地下室は八畳ほどのスペース。壁はむき出しの白い土のまま、丸太で所どころ補強されている。床にはゴザが敷かれている。正面の台座に阿弥陀如来像。子供くらいの背丈の坐像だ。光沢のある黒い像。  隅に文机が置かれ、ノートや本が載っている。机の脇には日本刀が立ててある。 「これ、本物?」  正人が刀を指さして訊くと、青木はいいかげんに頷いた。 「何のために、こんな――」 「魔除けですよ」  正人の問いになど耳もかさず、青木は仏像の前に座って合掌した。  白い土壁の上に、正人は黒ずんだシミを見つけた。何かの飛沫のようなもの。  はっとした。日本刀と黒いシミとが結びついた。  これは、血痕? 「青木さん、これ──」  青木は応えない。経文を唱え、宗教的な陶酔に落ちている。しばらくして読唱は終わり、ようやく正人に声をかけた。 「ここへ来てごらんなさい。あなたにはわかるはずだ」  呼ばれて、正人は青木に寄った。  青木は立ち上がり仏像を指さした。「あなたが本物なら、これがわかるはずだ」 「本物? 何のことだ」  正人には、青木の言うことがさっぱりわからない。指さされた仏像に目をやる。全体から細部に目を凝らす。黒い顔に表情を探す。  瞬間、頭の芯にくさびを打ち込まれたような衝撃に襲われた。  その顔。薄い唇が鋭角的に笑った──その顔! それは、幼い頃からもの想いの中に現れてきた、あの仏の顔に間違いなかった。  あまりの衝撃に、正人は凍りついたように立ちつくした。 〈どんなことからでも人々を救ってやる〉という不敵な微笑みをたたえた仏の顔。想いの内に居た仏を、まさかこんな所で見つけようとは。しかも青木は言った。衆生を救済する手段がある、と。その手段とは、おそらくこの仏像に関わることに違いない──  持て余すほどの疑問が頭の中を駆けめぐる。正人は蒼ざめた顔を青木に向けた。  青木は薄く笑っている。何かの期待に目を輝かせながら。 「光背をごらんなさい」青木は言った。「仏像の背中にある飾りですよ。そうすれば、すべてがわかるはずだ」  奇妙な感覚が、正人の内に芽生えていた。〈何か〉が彼の奥底で脈打ち始めているのだ。〈何か〉はゆっくり膨らんでゆき、破裂するのを待っている。破裂して、中身をぶちまけてしまうのを。  正人は怯えた。ぶちまけられる中身に。怯えながらも、言われたとおりに光背を見た。  光背は、四重の同心の輪だ。それぞれの輪に、文字がびっしり刻まれている。象形文字のような不思議な文字。それを見ていると、奇妙な感覚が増幅してゆく。  〈何か〉は、光背の文字に触発されたように震え、膨張の速度を増した。そして、その表面に亀裂が走り――  うわ……  思わず声をあげた。  正人の内で〈何か〉が破裂した。その中に抑えつけられていたものが、一斉に噴き出した。正人の目が大きく見開いた。 「こ、この仏像は、反物質誘導回路!」  青木の頬に歓びが(はし)る。 「そのとおり、Anti-Matter Inducer。略称AMI。阿弥陀仏のアミ、ですよ」シャレたつもりか、青木は、くくっと笑った。 「……こんなものが実在するなんて。それに、おれは何だってそんなことを知っているんだ?」 「あなたが〈本山〉の工作員だからだ。光背の特殊文字がキイワードとなって、記憶槽の奥に畳まれていた知識が顕在化したのです」 「〈本山〉……」 「組織の統括本部ですよ。思い出しましたか?」 「反物質の存在はディラックのスピノル理論によって予言され、反電子の存在が確認されている。宇宙の何処かには、反物質で造られた電荷だけ反対の反宇宙がある……」正人はうわ言のように喋った。  自分の知るはずもない知識が脳髄の奥から滲出してくる。  そこに青木が説明を加える。「AMIは、正反ふたつの世界を誘導し連結させる。ただし、起動するにはコードを入力しなければならない。四桁の文字列だが、それがわからなくなった。光背の四つの輪をそれぞれ回転させて、像の頭上に文字列を作るのです。どの輪にも数十の文字が並んでいる。組合せの数は数百万通り。その中から、煩雑なスタンバイの手順をくり返しながら、たった一つの正解を探し出さねばならない。AMIには外部と結ぶ端子はないし、開封もできません。だから、途方もないアナログの手作業です」 「まて……何をしでかす気だ? まさか……」 「もちろん、これを起動するのです」 「そんなことをしたら、この宇宙に反宇宙が流れ込んでしまう。ふたつの宇宙が衝突する……」 「そう。プラスとマイナスが、この像を接点としてぶつかる。そして全質量がエネルギーに変換され相殺される。一瞬ですべてが消滅する。地球はおろか宇宙そのものが無に帰す。地獄は消滅するのです。時間さえ無くなる。もはや輪廻転生も存在しえない。我々はすべて救済されるのだ。苦痛も快楽もない極楽へ、再生することのない穏やかな無へと旅立つのです」 「ばかな……なんというばかなことを」  正人はよろめく躰を壁で支えた。 「一瞬のことですよ。苦しむことはない。慈悲です。ほかに救済の方法がありますか? 悟りもない職業坊主のように、方便を並べますか? それともショーペンハウアーのように、地獄を生き抜く処世術でも教えるか? どうせ苦痛ばかりの世界なら、できるだけ苦痛が少なく済むように、何もせずじっとして暮らしなさい。苦痛の種になる夢など持たずに暮らしなさい。そう教えるか?」 「狂ってる。そんなにこの世界が厭なら、おまえ一人で死んだらどうだ。ほかの人たちを巻き添えにするな。一人で自殺しろ!」 「この寺を継いだ者は、同じ夢を見る。自殺の夢です。過去に、さまざまなわたしが自殺する夢。わたしは前世で、この世が厭で自殺したのでしょう。そのたびに生まれ変わっては、幾度も自殺をくり返した。その夢を見て、わたしにはわかったのです。自殺したところで何度でもここへ連れ戻される。刑期なかばで脱走した囚人のように。本当に輪廻の罠から逃れるには、転生の因となるすべての執着、煩悩を捨て去り、運命にまかせて死を待つしかない。刑期を全うするのです」  阿弥陀仏が、黒光りする顔に嗤いを貼り付けて、二人のやりとりを聞いている。密閉された地下室の空気は、冷たく、重い。 「いったい誰が、こんなものを造った……」正人は仏像を睨みつけて言った。 「どんなところにもレジスタンスはある。アウシュビッツにさえあった。計画は失敗し、みな処刑されたが……この世界にも、この世界のカラクリに気づき、囚人的民衆を解放しようとする組織がある。その一つ〈本山〉によって、ある未来に開発された。外見はただの仏像として。それがこの時代に送られ、隠されて、わたしやあなたのような工作員に伝えられてゆく」 「おれは工作員なんかじゃない!」  青木は笑った。「光背の文字を見て、この像の正体を理解したではないか。工作員である証だ。あなたは来るべくしてここへ来た。わたしからこの像を受け継ぐために。あわてなくても、潜在意識のロックが徐々に解除され、ゆっくりと〈使命〉を思い出させてくれますよ。わたしもあなたも〈永い〉時を戦い続けてきたのです。いくつもの時代の中で。不条理に挑んできた戦士なのです」  正人は呆然と青木の言葉を受けとめた。自分の凡庸な生涯に、そのような恐ろしいい要素が組み込まれていたとは。これまで過ごした日常が、土くれのように崩れ去ってゆく…… 「AMI製作チームは、AMI完成間際に混乱した。反対者が出たのです。反対者はAMIの完成を阻止しようとした。争いになり、殺し合いになった。反対者は全員死亡したが、それ以前に、AMIにちょっとした仕掛をしていた。起動コードを書き換えるプログラムを秘かに導入していたのです。初期コードは無効化されていました。おまけにそのプログラムは、周期的に起動コードを自動更新する。完成したAMIは二度と開封できないから、そのプログラムは削除不能です」青木は、うんざりしたように口元を歪める。「更新を繰り返す起動コードは、すばしっこい魚のように指の間をすり抜ける。するりと永遠に逃げ続ける。とんだ〈(さい)の河原〉だ。何度石の塔を積み上げても、そのたびに鬼がやって来て崩してしまう。でもね、それが何だというのでしょう。確率が何百万分の一であろうと、起動する者にとっては、常に〈あたり〉か〈はずれ〉かのどちらかしかないのですよ。案外、逃げたつもりの魚が、むこうから手の中にとび込んでくるかもしれない」  青木は、恐怖と向き合ってきた日々を回想したように、ぶるっ、と躰を震わせた。 「わたしは、たった一つの起動コードも試せず、一日中ここに座っていることがある。そうかといえば、狂ったように何十通りも試す日がある。次のコードが〈あたり〉かもしれないと思いながら。一つ試すたびに、わたしの中から、生命(いのち)が失われてゆく……」  書院から出てくる青木が憔悴していたはずだ。次の試行が世界を消してしまうかもしれない。全宇宙のこめかみに銃口を当てたロシアンルーレット。彼はここで、毎日何度もを体験していたのだ。  青木がふわりと寄って来た。  正人は壁に背をすりつけたまま、階段の方へ退いた。 「……もう、わたしは限界です。ねえ、助けてくれるでしょう? わたしに代わって阿弥陀仏を管理してくれるでしょう? この寺の新しい住職に――」  すがりつく亡者のような手が肩に触れようとした。正人はそれを振り払い、逃げるように階段を上った。
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