09 山上から見えるもの

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09 山上から見えるもの

               *  夜の闇はすでに希薄になっていた。遠い山稜から太陽が顔をのぞかせようとしている。その僅かな光にさえ、正人は救われた思いがした。バッグを抱え、逃げるように庫裡をとび出してきた。本堂の前を駆け抜ける。追手などない。それでも息を切らして走った。朝霧に湿った冷気が、鋭く喉を刺した。  石段を駆け降りる。数段降りたところで、足を踏み外した。めまいに襲われたのだ。尻をついて仰いだ空がグルグル廻っている。  どうした?  心臓が嫌な動悸を打っている。  徹夜したうえに、おかしなものを見聞きしたせいか? でも、大丈夫。明るくなって賑やかな町へまぎれ込んでしまえば、すぐにあんなことは忘れてしまえる。気ちがいのたわ言だと笑いとばせるようになる……  懸命に自分を励まし起きあがった。ゆっくり、踏みしめるように段を降りる。だが、やはりおかしい。躰のどこか、それとも精神のどこかが変調をきたしている。一段降りるごとに、重苦しい不快感が泥のように体内を充たしてゆく。  降りなければ。逃げなければ。あの平凡過ぎる日常の中へ。早く……  自分自身に言いきかせた。けれど、躰が言うことをきかない。一段降りる。不快感が突き上げる。もう一段。おぞましいものがこみ上げる。全体のまだ三分の一も降りていないところで、とうとううずくまってしまった。めまいはうねりとなって暴れまわる。足元が崩れ去るような絶望感。目をきつく閉じ、すがる思いで石段をつかんだ。  そんな状態で、どれくらい経ったかわからない。暴れる波が退き、目を開いた。   そのとき彼の目に映ったものは、一面の地獄絵巻だった――  山の下に拡がる広大な地獄。そこに棲むのは、人の皮をかぶった鬼たちだ。騙し合い、傷つけ合う。憎悪や嫉妬や怨念が、飽くことのない欲望の海に渦巻く世界。人々はまるで亡者のように、その中で生存のための業をくり返している――  おれは、これまで気づかずにいただけなのか……  数少ない、つつましやかな幸福が餌としてばらまかれ、それを得るために気の遠くなるほどの苦痛と忍耐と犠牲とを強いられる世界。  今まで慣れ親しんだ現実の中に、正人は見出した。業火を。苦悶する人々の姿を。人々は裁かれる罪人であると同時に、裁く鬼でもあった。めまぐるしくその立場は入れ替わるのだ。  皆、目隠しされたように、あくせく生きている。そしてある日、絶望の淵に突き落とされたとき、ふいにこの世界の実相に気づくのだ。だが、ここが地獄と気づいて自ら命を絶ったところで、転生によってまたここへ連れ戻される――青木の言葉を否定する根拠はない。  ああ、町に地獄がだぶっている。もう戻れない。あそこで暮らしてはいけない。躰が拒絶している。石段を降りるたびに容積を増す不快感が何よりの証拠だ。それに、青木がAMIのコード入力をしていることを知りながら、平穏に暮らしてゆけるはずがない。これから先、自分がどこで暮らそうとも、青木はこの寺で経を唱えながら、世界を終わらせるためのスイッチを入れ続けるのだから。  平凡でよかったのだ……目をつぶり、耳を塞いででも、静かに暮らしてゆきたかった……  幸せ、とは失くしたもののことだった。退屈な毎日は、失くした瞬間、幸せに変わった。  涙が溢れ、嗚咽が洩れた。  再び、大きなめまいの波が来る。もはや手で躰を支えることもできず、石段の上に倒れた。数段ころがり落ち、踊り場に投げ出された。  薄れてゆく意識が、斎子の顔を見上げていた。柔らかな掌が額に触れてくる。 「ひどい熱だわ」遠くからの声のように響く。 「オーバーロードだ。持ちこたえてくれればいいが……」青木の声がした。
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