第1章:理性崩壊寸前の密室空間

4/12
前へ
/118ページ
次へ
 田中さんという入院患者さんは肝不全の末期の患者さんである。  肝臓の機能が低下してくると、肝臓での栄養の分解と貯蔵の能力が低下してくる。そして、分解と吸収能力が低下してくると、腹水という液体が体内に貯留してくる。腹水が増加すると腹部が圧迫され、呼吸困難の症状をきたしてくる。腹部に専用の針を刺すことで貯留した腹水を体外に放出することを、腹水穿刺と言う。そして、体外に放出した腹水を専用の濾過装置で濾過し、栄養素が凝縮された腹水を点滴と同じような要領で体内に戻すことを、英語の略称でCARTと言っていた。 「腹水穿刺をするにしても、感染症のリスクもあるし、CARTと言っても一旦自分の体液を外部に出してから再び体内に戻すという手法だからな……腹水を抜いても短期間で再び貯留してくることを考えると、安易に行うことも出来ないんじゃないかな」 「……それでも、私は患者さんのQOL(Quality Of Life)を最善に考えるべきだと思いますが」  真っすぐ前を向いたまま、桐ヶ谷は迷うことなく自分の考えを話していた。  毎週水曜日の朝には消化器内科の医師が全員病棟に集合し、病棟の看護師たちと患者さんの治療方針を立てるためにカンファレンスを行っている。この世界では良いことなのか悪いことなのかはさておき、医師の考えがすべての根本となっていることが多い、看護師たちの意見は患者さん側の考えを尊重しているものが多く、ときには医師としてその意見を吸収すべきことも多い。しかしながら、医師としてのつまらないプライドがあるためか、その意見をはねのけてしまう医師が多いというのも事実だった。  それでも、桐ヶ谷はそんなパターナリズムに屈するほど弱くない人間だった。カンファレンスの場においても自分の意見を迷うことなく主張し、医師の考えに矛盾や相違点があれば納得がいくまで質問を繰り返す。傍から見ているオレからすればハラハラしてしまうことも多いが、すべては患者さんのためという桐ヶ谷の信念が生み出した結果だった。 「おっ、今日も盛況だなぁ!」  エレベーターが10階に到着し、朝回診を終えた整形外科の医師たちが雪崩のようにエレベーターに乗り込んでくる。エレベーターの乗車率が100%を超えてしまおうかという中、オレや桐ヶ谷は段々とエレベーターの隅の方に追い込まれてしまう。 「っ、瀬川先生、近すぎじゃないですか? せ、セクハラで訴えますよ!?」 「し、仕方ないだろ! エレベーターがめちゃくちゃ混んできたんだから! あと2階だから我慢してくれ!」  桐ヶ谷の手に自分の手が触れそうなくらいの至近距離まで、オレたちの距離は接近してしまっていた。  オレにだけ聞こえるくらいの小声で桐ヶ谷が抗議の声を上げるが、こちらとしても不可抗力の部分が多かったため、どうすることも出来ないでいた。横目で見ると桐ヶ谷の顔はやや紅潮してしまっていて、先ほどまでの凛々しい姿は鳴りを潜めてしまっていた。
/118ページ

最初のコメントを投稿しよう!

850人が本棚に入れています
本棚に追加