0人が本棚に入れています
本棚に追加
「でくの坊と呼ばれ、相手にされない、そんな人間って、一体どんな人間なんだろう」
タバコを燻らせる青年の顔には、少年だった面影が色濃く映し出されていた。かつての学び舎を前にしているのからなのか、それとも何かを思い出したのか、それを推測するにはあまりにも夜は更けていたから、僕は灰を地面に落とした。
夏休み最終日、もう社会人になったら当分会うことのないだろう圭也と二人だけの送別会を開き、その帰り道にタバコが吸いたくなったから、僕らは久しぶりに母校に行くことにした。
もちろん夜の1時すぎだから学校は空いてなかったが、門の前にバイクを止めて、そこからいろんな思いを馳せるのに、わずか数メートルの敷地は十分すぎた。
「宮沢賢治の授業の時、散々寝てたのによく覚えてるな」
「いや、最近詩を読んでさ、まあそれで雨にも風にも負けない人間になるために玄米四合食おうとしたんだけど、四合って頭おかしいよな」
「多分大食いだったんじゃない、ギャル曽根みたいな」
「ギャル曽根賢治、恐るべしだな」
お互いに酒は入ってないのに、誰も笑わないようなギャグで笑ってしまう。それほどまでに目の前のその古い建物は懐かしくて、どこか緊張や力が抜けてしまった。
「でも、そうだよな、そんな人間になって、それって楽しいのかな」
力強く、しかしどこかアンニュイな詩の人間像を証明する暇もなく、結局30代で死んでしまった宮沢賢治の人生に思いを馳せ、空を見上げる。
天に登っていくタバコの煙と、いつか誰かがよじ登って生活指導の乃木にブチギレられた門の隣の時計台がゆらゆら揺らめいているのが見えた。
「さあ?でも、そういう人生も、何だか楽しそうだな」
曖昧な答えしか出せないのは、少年というには年老いすぎていて、かといって大人というにはあまりにも若すぎる自分のせいだった。
そしてそれは、圭也もそうなのだろう。
学生時代に口にできなかったタバコを、こうして僕らは嗜んでいる。成人式も迎えたのだから、多分世間からすれば僕らは大人なのだろう。
でも居酒屋でも公園でもなくこの学校を選んだのは、多分懐かしさだけじゃなかった。
忘れてしまったものを思い出す、残してきたものを取り返す、そんな群像劇の一幕のような理由よりもずっとずっと子供っぽい理由。
大人にもなりきれず、しかし子供にもなりきれなかった、弱くてでかい僕らには、その理由を知る術も必要もなかった。
「この学生最後の夏休みの帰省でさ、何か得るものはあった?」
唐突な圭也の質問にはたと意識を戻す。
「いや、強いていうならこいつかな」
そういって僕は座っていたスクーターの席を掌で叩いた。
「ああバイクの免許取ってたね、いいなぁ俺も車だけじゃなくてバイクの免許欲しかったな」
「何だよ、取らないのか?」
「もう明日下宿戻るから無理だし、それに、そんな元気なんてないよ」
ああ、そんな顔でそんなことは言わないでくれ。
諦めの口調に反して、顔は先ほどよりも若く見えた。それは圭也の本心が、言葉とは遠く離れていて、しかし同じくらいとても近くにあったからだ。
圭也はさらに続ける。
「最近思うんだ、誰かと飲んでても、就活してても、バイトしててもさ。『もっと先のこと考えないと』って。人生計画立ててさ、堅実に貯金してさ、それで、自分の決めた寿命まで長生きする。学生の頃なんて思いもしなかった仕事につこうとしてて、でも今のままじゃダメだから資格とかいっぱいとって、その前に就活のセミナーに行って、でもそれよりもまず大学の勉強しなきゃいけないから一日三時間は勉強して、とかいろんなこと」
尽きた吸殻を排水溝に投げ捨て、圭也は箱からセブンスターを一本咥えた。
「でもそうやっていろんなことが頭を巡っていくのに、無意識にさ、『無計画にやりたい』って思うんだよ。世間体とか社会とかをぶっ壊して、テロリストやアナーキストとかとは違うんだけど、そうやって自分の肩書きを一つずつ一つずつ消してって、みんなの前から姿を消して、最後は多分、誰も知らない町外れのパン屋さんで、誰が食べるわけでもないけど自分が『好きだ』って思えるパン生地をこね続ける、そんな暖かそうな生活がしたいと思っちゃうんだよ」
その言葉と顔は、よく似合っているよ。
心の中でそう呟いて、僕はマッチで圭也のタバコに火をつける。
「悪いな、火つけてくれたのも、こんなどうにもならない愚痴を聞かせたのも」
「いや、俺もおんなじようなものさ」
圭也のあの言葉は、本音の部類に入るのだろう。そして突拍子も中身もない夢を見るのは、学生たちの特権だったはずだ。
お前には、そうやって誰も思いつかないような夢を見て、そいつを追い続けるのがよく似合う。
柄にもなく友人をそんなふうに思ってしまった自分が恥ずかしくて、まだ少し残ったタバコを地面に擦って火を消す。
そうして新しくつけたタバコの煙とともに、僕は自分の胸の内を吐き出す。
「学生時代は本当に満足してたんだ。自分の世界の狭さを知ってたからあんまり成果という成果はないけど、それでも、いろんなバカやって、その度に満足してた。部活も、文化祭も、勉強も、恋愛だってそうだよ。周りの人と比べたことなんて大学出てから初めてしたよ。誰かの幸せの物差しとかも初めて知ったよ。だって、知らなくたって僕は自分のことを認めていたもの。例えそれが世間的にどんなに無意味でもさ」
県大会をあと二秒で逃した陸上の決勝戦も、文化祭実行委員の仕事も、学期末みんなで賭けをして挑んだ勉強も、誰もいない教室で好きな子とキスをしたのも、全部全部、卒業して知った世界では無意味だった。どんなにあがいてもアフリカ勢に勝てるわけはないし、公務員の仕事よりも実りはないし、大学の博士課程の連中は僕らよりも何倍も頭はいいし、キスぐらいで騒いでいるやつはもう周りにいやしない。
それでも、そんな世界を知っても、子供の頃は、例え上には上がいることを知っても、僕はずっと自分を認められていた。
認めて、胸を張って、心から笑って生きていた。
失敗もしたし反省もさせられたけど、自分に嘘だけは本当につかなかったんだ。
それが今ではエナジードリンクで自分を欺き、承認欲求で自分を着飾り、見かけの成果で自分を騙し、そして目先の欲求で自分を傷つけていた。
学生は、子供だ。まだまだいろんなことを知らない。
でも子供は、最強の信念と生き抜く力があった。どんなに辛くても苦しくても、自分を殺すことだけはしない、たった一つの、でもとても大事な約束を守っていた。
大人は、そんな約束を破ってしまった失格者だ。知った現実に嫌気がさして、でも仕方がないからその現実の中で生きていく。本当は知ることに終わりはないのに、探究を放り投げて、「それが大人だから」と自らに言い聞かせて諦めた子供の成れの果てだ。
僕たちは、そういう意味ではもう大人なのかもしれない。
「自分で自分を認められる...か」
圭也のポツリと呟いたその言葉が、僕のタバコの苦さを強くした。気付けばもう長さが半分以下になっていた。
「まだ卒業してから四年しか経ってないのに、もうそんな情けない人間になっちゃったのかな、俺たち」
「高校をもう一回繰り返しちゃって、また一年やるのとおんなじ長さだ」
「そっか、今卒業してから四回目の夏か」
まだ四年と捉えるのか、もう四年と捉えるのか。今の僕らにとってそれは命よりも大事なことだった。
「大学入って、いろんなことして、いろんな経験して、でも全部ダメなんだ。成績優秀賞で表彰されても、サークルの役員やっても、いろんな連中と飲み行っても、女の子と付き合って遊んでも、何にも、何にもなかった」
「わかるよそれ、俺も何もなかった」
元から何もなかったのか、それとも...
「別に高校時代が最高に楽しかったわけじゃない。サッカー部は万年補欠だったし、勉強の方もさっぱりだった」
圭也は自虐的に笑った。
「でも、でもあの時は、一瞬一瞬が大事だった。それが全てじゃなかったけど、生きてたよ。俺は、ちゃんと、ちゃんと生きてた」
ああ、そうか。
生きてたんだ。
それが具体的に何なのかわかりはしない。本当にそんなものを学生時代に感じていたかもよくわからない。
でも、それでも今の自分と比べたら、よっぽど、よっぽど生きていたって言えるはずだ。
「ああ、そうだよな」
最後の一吸いをして、バイトして自分の金で買った靴でその吸い殻を踏みつける。
結構高かったから大事に履いてたけど、もうそんなことは関係なかった。
「生きていたんだ、俺たちは。そして大人を見せつけられても、それでもどこかで『生きたい』って思ってるんだよ」
子供の頃のあの感覚を思い出して、身体中が熱くなるのがわかった。
世間が悲しいというものに泣こうとしても泣けなくて
でも道の隅に咲いているたんぽぽに涙して
「正義」だと言われていることに怒れなくて
でも自分が間違っていると思ったものは正面から立ち向かって
テレビで映る「面白い」ものに笑えなくて
でもみんなと一緒にいるとどんな些細なことでもずっと爆笑していて
そういうことをもう一回したいとか、そういうのじゃない。
もうあんなバカをするには色々と知りすぎてしまったから。
でも、いや、知っているからこそ、きっとあの時の「生きている」って感覚を、どこまでも追い求め続けることができるのだろう。
子供のあの心を諦めた人間が大人だ。
だったらその心を諦めなかった人間は、何て呼ばれるのだろう。
僕は、彼らのことをなんて呼んであげよう。
「生きていたい、か。変なんだよな、こうして脈もうってて息もしているのに、何でかその言葉がすごくしっくり来るんだよ」
そうだ、生きるんだ。そういってうなずいた圭也の顔は、僕が昔一緒にバカをしていた圭也と全く同じ顔だった。
「まあだからと言って何かがすごく変わるわけじゃない。相変わらず色々と悩むんだろうな」
「だろうな。就活もするし過去を懐かしむだろうし、タバコだって吸うだろうし」
だけど、圭也はそう言いながら吸殻を大きく振りかぶって少し遠くの排水溝目掛けて投げる。
「俺たちは、せめて俺たちだけは、その気持ち、忘れないように生きていこうぜ」
「そうだな...ああ、そうだな」
そうして排水溝に吸い殻が吸い込まれたその瞬間、過去と未来と今がちょうど一つになって、真夜中の学校に重なった。学校での授業、まだ見ぬ企業のオフィスの風景、バイクとタバコと圭也と僕と。全てがどこまでも続いて、しかしどこまでも一つだった。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
「そうだな」
そうしてバイクのエンジンをかけ、圭也を後ろに乗せてから、僕らは学校を去る。
もう子供でも、しかしまだ大人でもない僕らは、その中途半端さを大事にしよう。
大切に、大切に、でくの坊と呼ばれても、相手にされなくても、玄米が四合食べれなくても、大切に守っていこう。
そしていつか僕たちのような少年少女たちに、青年青女たちに、伝えてあげよう。
「生きる」ということを。
もう卒業して四回目の夏を迎えているのに、何故だか学校は、僕たちに大事なことを教えてくれたような気がした。
最初のコメントを投稿しよう!