走力テスト

1/1
前へ
/137ページ
次へ

走力テスト

部室の外に出ると定刻の時間前にも関わらず、藤本が蒼学のランニング用のウエアに着替えて、新入部員の確認をしていた。 藤本は手にしているiPadに新入部員の名前とクラスを打ち込んでいく。 宮原と視線が合うと藤本は「クラスと名前は?」と訊かれ、落ち着いた物腰に背筋がピンと伸びてしまう。 「2組、宮原悠です」 「同じく2組、松下亮平です。 宜しくお願いします」 「……宜しく」 藤本はちらりと目線を上げ、目元を柔らかくした。 「全員の参加者リストを入れたら、直ぐにテストをするから、ストレッチしておけよ」 藤本は各個人に十分な準備をするように声を掛けると、腕時計で時間の確認をする。 定刻の13時になると、ウエアを用意していない学生も含めて、部室前でミーティングを開始する。 「定時になったので練習を始めます。 まず、ウエアを持ってきていない人は今日は帰宅して下さい。 明日、朝7時からこの場所で走力テストを1本だけ行うので、それに参加するように」 一瞬、その場が騒つくが、藤本は構わず話を続ける。 「この走力テストは1年から3年の全員参加で、1週間に1度、定期的に行っています。 自分の基礎体力の数値を知る事、基礎体力を上げる事、そしてレギュラーとしての数値を保てているのか、という事を目的としているので、集中して行うように」 藤本は必要な情報だけを新入部員に伝えると2、3年生のいる場所へ全員を誘導した。 既に2、3年生は自分の持つ合計タイム毎に少数に分けられ、スタートポイントに立っていた。 その中で1年生はランダムに3、4人参加する事になり、次々とスタートを切っていく。 宮原と松下も少し緊張の面持ちでスタートラインに立つと、同じグループに沢海が入ってきた。 宮原にとって、憧れの先輩との再会に更に緊張が増し、グッと拳を握ってしまう。 『沢海先輩…』 沢海は自分の後ろにいる1年生達がいる方向をちらりと見て、口元をニヤリと上げる。 「途中でくたばんなよ!」 「「はい!」」 ピッ!と笛の音が鳴り、全員が勢いよくスタートをする。 入学式典の後のサッカー部のプロモーションで藤本先輩は『50m走6.5秒以上、10km走40分、このタイムより遅い人は他の部活を選んで下さい』と言っていたのを思い出す。 宮原は他の新入部員との圧倒的な差、中学時代に所属していたサッカー部の経験と実力をここで詰めようと気合を入れた。 トラックを半周走ったところで、沢海先輩が隣を並走している他の先輩へ声を掛けている。 「今日、どうする? 何分にする?」 「今日、10km2本だろ? 1本目35分、2本目33分でいいんじゃね?」 「オッケ」 最初の数周は軽いジョグのように走っていたが、5kmの折り返しに差し掛かると、明らかにタイムが早くなってきている。 宮原は左腕のGショックで各1周づつのタイムを確認していたので、先程の沢海達の会話はトータル時間での目標だったのだろう。 宮原は隣で少し息を切り始めている松下へ声を掛ける。 「2本目の方にタイムを詰めるって、鬼だな」 松下は遠い視線で少し呼吸を整えると「こっからがまた地獄の始まりかよ…」と嘆いた。 他のグループでも残り5周を切った辺りで1年生と2、3年生の間にスペースが生まれ、1年生が必死の形相で食らい付いている。 頭を振り、顎を上げ、心臓が割れんばかりに鳴っているのだろう。 途中で脱落するという選択肢を選ばないように、懸命に走っている。 宮原も全く呼吸が苦しくない訳ではないのだが、まだ周囲に思考を巡らす余裕はある。 沢海はふいに後ろを気にして、直ぐ自分の後ろを走っている宮原に声を掛ける。 「お、まだ余裕そうだな。 ラスト2周、いけるか?」 宮原は単調な基礎トレーニングでも沢海と一緒に走ているという事に今更ながらに嬉しくなり、笑顔で「大丈夫です!」と答える。 沢海は人差し指をクイッと手前に動かし、宮原を自分の真横に並走させる。 「20m先のラインからゴールまでのラスト2周、ダッシュで行くぞ!」 「はい!」 宮下は顎を引き、両腕に力を入れる。 ライン間際まで迫り、沢海が声を出す。 「3!2!1!Go!!」 沢海の掛け声と共に、宮原は余力を全て使い切ってしまうようなスピードでトラックを駆け抜けていく。 沢海が一歩先まで先に進むと、それに負けじと宮原も沢海を追う。 「…くっそ! 負けるかよ!!」 未だに余裕のある沢海を睨み付け、歯を食い縛る。 1本目をゴールし、走り終える。 宮原は両膝に手を付き、ゼイゼイと呼吸をしていた。 周囲を見渡すと大抵の1年生が同じように呼吸を整えようと、グラウンドの上で大の字に寝転ぶ者、座って空を仰いでいる者と一様に体力を消耗しきっているのが伺える。 中には吐き気を催す者もいて、走力テストとはいえ初日からなかなかハードな練習だ。 沢海は宮原の傍に歩み寄ると、宮原の腕を取り、自分の方へ引き寄せる。 「次、2人で走ろう。 32分!」 沢海は自分のシャツを捲り、顔の汗を拭きながら宮原へ要求してくる。 宮原も嬉しい反面、「さっき、別の先輩と話をしていたタイムより1分早くない?」という疑念に駆られたが、苦笑いで答える。 「先輩!勝負しましょう!」 「そうこなくちゃ!」 ゴールしてから、休憩を15分で直ぐに次の10km走の準備を進める。 試合時間を体内で直接覚えさせるために、前半と後半の間の15分、前半のみの40分、前後半の80分と時間を細かく区切り、時間の感覚をつけさせる。 2回目の10km走に入ると新入部員の目付きがガラリと変わる。 生半端な気持ちだけではこの「蒼学サッカー」には付いていけない、と分かる。 入学当日で直ぐに練習を開始し、初日で練習内容で追い詰められ、更に追い詰めたのはこの沢海と宮原のマンツーマンでの走力テスト、400メートルのダッシュを目の当たりにした所為という事もある。 スタートラインに立つ沢海はシャツを捲り、ハートレイトモニターを胸部に付けながら、さっき一緒に走った1年生を目で探す。 「来いよ!」 沢海は宮原を手で合図して、スタートラインに呼び寄せる。 沢海はハートレイトモニターの位置を微妙に調整しながら「名前は?」と聞いてくる。 「宮原です。 宮原悠です」 「宮原、ね」 「オレは…」 「ーーー沢海、先輩ですよね。 オレ、先輩のプレイ、凄く憧れていました。 一緒にサッカーしたいって、ずっと思ってました。 ーーーこうして、やっと同じ練習が出来るんだなって、嬉しくって…」 宮原は沢海を真っ直ぐに見詰める。 純粋で素直な宮原の想いを一心に向けられて、一瞬言葉が詰まってしまう。 沢海は突然の好意に少し照れ臭いのか、俯いて、視線をもう一度宮原に移した。 「ありがとう、な」 宮原も沢海からお礼を言われると思っていなかったので、宮原も赤面してしまう。 「ーーーーおい、いい加減スタートしていいか?」 地を這うような低い藤本の声に「はいっ!」と宮原は背筋が伸びてしまう。 今、ここにいる場所と状況を考えずに沢海と話をしてしまい、ちらりと沢海を見てみると、沢海も自分のことを見詰めていた。 沢海は首を竦めると、軽く吹き出して笑っている。 「ピッ!」と笛が鳴ると、10km走の2本目が始まり、2人は軽いジョグからスタートする。 100m程走り、他の人の声が遠くなってから沢海は宮原に話しかけてきた。 「……宮原。 お前、オレと何処かで会ったことあるか?」 沢海は走りながら宮原の顔をジッと見詰め、眉間に皺を寄せて考えている。 何処かで会ったことがあるのか、何かをしたときがあるのか、記憶が曖昧でよく分かず、思い出せない。 宮原は呼吸を抑え、沢海へ想いを伝える。 「沢海先輩と会ったのは去年の夏。 ーーーオレが蒼学の授業体験に来た時です……」 「ん?」 沢海は視線を遠くに眺め、思い出そうとしているが、今イチ記憶の端を掴めなさそうだ。 「オレはあの日、自分に誓ったんです。 絶対にこの蒼学に入るんだって。 絶対に沢海先輩とサッカーをするんだって…… 一緒にピッチに立ちたいって」 「ーーーーーー」 「これはオレの記憶にあるだけで十分です! 実際、今、この蒼学にいて、このサッカー部にいるから…… ーーーだから……」 「もしかして、あの時の学ランの中学生か?」 既に何kmも走っていて心臓がバクバクと動いているのに、更に心臓がひっくり返りそうな程に騒いでいる。 「ーーー思い出した! 『ポジション、取ってみろよ』って言ったら、『絶対に取ります!レギュラーになってみせます!』って、生意気な事言っていただろ?」 沢海の記憶の中では「生意気な中学生」という扱いで、宮原が声を出して笑ってしまう。 「沢海先輩だって、オレの事を挑発していたのにさ」 「何だとぉ?」と宮原の首に右腕を掛け、自分に引き寄せる。 宮原はバランスを崩し、沢海の方へ倒れ込んでしまう。 「ーーーわっ!」 沢海は宮原の腰を抱くように支え、悪戯っぽく笑う。 「宮原。 一緒にサッカー、やろうな」 宮原と同じ視線で、少し屈んで走っている沢海と視線を合わせる。 たったその一言「一緒にサッカー、やろうな」の言葉が嬉しい。 自分が望んでいた言葉。 自分が欲しかった言葉。 ずっと憧れていた沢海先輩とサッカーが出来る。 「ーーーーはい。 宜しく……お願いします!」 少し声を詰まらせてしまい、感情が溢れてくる。 目にじんわりと涙が溢れてくるのが分かる。 宮原は慌てて半袖のシャツで顔を拭い、沢海から視線を外した。 沢海も宮原の俯いている頭をポンと叩くと、 「泣いてんじゃねーよ」と笑っていた。 そんな沢海の優しさに触れ、益々涙が溢れてしまう。 「泣きながら走っていると、息、死ぬぞ」 半分脅しのように凄まれ、宮原が上目遣いに沢海を見る。 泣き顔を見られてしまった宮原は、照れ隠しのように「大丈夫ですよ」といい、平然と走るペースを元に戻していく。 沢海は宮原のGショックが刻んでいるタイムを見せてもらう。 「宮原。 残り、2km、ダッシュ決定。 32分で終わらすぞ」 ーーーと、まだ地獄は終わらない。
/137ページ

最初のコメントを投稿しよう!

275人が本棚に入れています
本棚に追加