第44話 廃病院

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第44話 廃病院

 その病院は東京西部の多摩川支流に近い山間部に建っていた。五階建ての大きな建物で三階部分に広いテラスらしきものも見える。華奈子の記憶で見たテラスと同じ形状のものだ。  しかし、いまはすっかり廃墟となり、どの窓もガラスが割れて無残な様相を呈していた。  その正門の手前で車を止めて、三人は廃墟となった建物を見上げた。  千夏は肩から下げたトートバッグを胸にぎゅっと抱いたまま、ごくりと息を飲む。その中には、ここに来る途中で買った子どもの靴が入っていた。男の子用のデザインで、店員さんにおおよその年齢を伝えて合いそうなサイズを選んでもらったもの。  まだお昼を少し過ぎたばかりで今日はよく晴れているというのに、廃墟の周りだけが明らかに薄暗い。まるで全体に薄いモヤがかかっているようだった。  日が高いためか霊のようなものは視えていないが、嫌な気配を全身に感じてぞわぞわと両腕に鳥肌がたったままおさまらない。 (ここ、本当に怖い……)  行きたくない。ここに近づてはいけない。そう本能が警鐘をならしているようだった。一歩だってその建物に近づくことを、全身が拒んでいる。 「すげぇな、ここ。よく、こんだけ集まったな」  千夏には嫌な気配だけしか感じられないけれど、元気にはそこに集まる霊たちが視えているようだ。 「元気には何が見えてるの?」  おそるおそる尋ねると、彼は眉を寄せて廃墟を眺める。 「とにかく、禍々しいっていうのが一番ぴったりくるな。……窓のあちこちから、黒い人影がこっち見てるし。ほかにも人の顔がたくさん埋まった黒い塊がうろうろしてるのも視えた。腕だけのものとか、下半身だけのとか、そんなのもいる。こんな日の高い時間からあんなにたくさんウヨウヨしてるなんて、どう考えても異常だよ」 「そうだ。ここは異常だ。半分、あっちの世界とつながってしまっているといっても過言じゃない。だから」  一度言葉を区切ると、晴高は険しい視線で千夏たちに念を押す。 「その靴をソウタに渡したらすぐに建物から出るんだ。いいな」  晴高に念を押され、千夏はもう一度トートバッグをぎゅっと抱くと、こくこくと頷いた。  ここに来る前に、千夏と元気が以前に見た廃墟の様子を晴高に詳しく話して聞かせたところ、部屋の広さや散らばっている椅子などから、一階の会計用待合室か各階の入院者用に用意されていたデイルームではないかと言う。  デイルームは院内に数か所あったようだけど、小児科病棟のある五階が一番あやしいということになった。  そうこうしている間にも、廃病院を取り巻く黒いモヤのようなものは密度を増してきているように思えた。 「……行くか」  隣に立つ元気が手を差し出してくる。それを左手でぎゅっと握って、こくんと千夏はうなずく。すぐ後ろに立つ晴高が読経を始めた。  すると、それまで濃くなる一方だったモヤが、少しずつ薄れていくようにも見えた。  千夏と元気は同時に、敷地の中へと足を踏み出す。  途端にねっとりと肌に絡みつくような空気の濃度を感じた。まるで水の中を歩いているかのよう。しかも敷地内に入った途端、まだ昼過ぎのはずなのに夕方のように辺りが薄暗くなる。  千夏たちの前に、建物の入り口がぽっかりと口を開けていた。  オオオオオオオオ………  建物を通り抜ける風が不気味に鳴る。  足が竦んでしまいそうだった。  幸い、霊らしき姿は千夏には視えない。  建物に向かって歩き出すと、どんどん足が速くなった。早くここから立ち去りたいという恐怖が足を急かす。  後ろからついてきてくれている晴高の読経の声が心強かった。霊が近寄ってこないのは、この読経のおかげなんだろう。  病院のエントランスから中へと足を踏み入れる。中も想像以上に荒れていた。  天井がところどころはがれ落ち、窓ガラスはほとんどが割れ、周りには医療ワゴンやら落ち葉やらゴミのようなものが散乱していた。  まず、入ってすぐのところから見ていくことにする。そこには会計待ちをするための待合室らしき場所があった。今は椅子が無残に散乱しているけれど、元気が建物の外から見たという人影や不気味な黒い塊のようなものは今は見えない。ソウタが隠れていたあの手洗い場のようなものも見当たらなかった。 「ここじゃないみたいだね」  元気の声からも緊張が感じられる。  まずは一階をざっと探してみて、該当の場所がなければ上の階に行く予定だった。  晴高の読経に交じって、どこか遠くから風の鳴くような音がずっと響いている。  けれど、待合室から出たとたん、その風の鳴くようだった音がだんだんと大きくなってきた。 (あれ、風の音なんかじゃない……?)  オオオオオオオオオオオオオォォオォォォォオォオォォォ……  さっきは風が吹き抜ける音にしか聞こえなかったけれど、今ならわかる。  これは声だ。たくさんの人の、うめき声。ひとつひとつが、生者への憎しみと恨みで満ちていた。  ……ニクイ…ニクイ……  ……ナンデ…クライ、クライヨ……  …タスケテ……オネガイ……イヤ…イタイ……  ……シニタクナイ……シニタクナイ……コワイ……シニタクナイ……  廊下の奥がやけに暗いと思って目を凝らすと、そこに黒いモヤが集まりだしていた。モヤはどんどん大きくなっていく。廊下をふさぐほどの大きさになったかと思うと、その合間から何本もの人間の手足が見えた。時折苦痛にゆがむ人の顔も浮かんでは消える。それらが口々に、生者への憎しみを呟き続ける。  モヤはしだいに大きさを増しながら、こちらへ何本もの手をのばし、ゆっくりと近づいてくる。 「……まずい。いったん逃げるか」  晴高がそう言ったときだった。 『マッテタノ』  三人の誰でもない、女性の声が耳をかすめる。 「え?」  千夏が辺りを見回していると、 『コッチ……』  もう一度同じ声。そのとたん、誰かにぐいと右手を引かれた。 (え?)  いつの間にか、千夏の前に華奢な背中があった。白いワンピースの、髪の長い小柄な女性のような背中。その細い腕で千夏の手のひらをしっかりと握り、千夏を導くように手を引いていた。  千夏は手を引かれるまま、彼女と一緒に走っていた。当然、元気もついてくる。晴高もついてきているのが足音でわかっていた。  背中を向けているため手を引く女性の顔は見えない。  でも、それが誰なのか千夏はわかっていた。おそらく、元気や晴高もわかっていただろう。 (華奈子さん……)  胸が締め付けられそうだった。  彼女に導かれるままに廊下を走り、階段を上った。いっきに五階までのぼったので途中で息が切れそうになったけれど、肩で呼吸をしながらなんとか登りきる。  五階も一階と変わらないくらい荒れ果てていた。散乱したガラスや落ち葉のほかに、墨のような泥水の水たまりがあちらこちらにある。その水たまりの間を抜けて、華奈子に手を引かれたまままっすぐに廊下を走っていく。しかし、突然、彼女の身体がぐらりと崩れた。 「きゃ、きゃっ!」  千夏は足を止めて、悲鳴をあげる。華奈子のすぐ足元にあった水たまりから、何本もの黒い腕が伸びてきて、華奈子に絡みついていた。華奈子は千夏を突き飛ばすようにして手を放す。倒れそうになった千夏を元気が支えた。  次の瞬間にはもう、華奈子の姿はその場から掻き消えていた。でもその寸前、 『……アノヘヤ……アノコヲ、オネガイ……』  そう頼む華奈子の声が確かに聞こえた。 「行こう。あの先だ」  晴高はそう言うと、すぐに読経を始める。あちこちの水たまりから黒い手が伸びてきて、千夏たちに迫ってきていたが、その手が読経に反応して一瞬動きを止める。その隙をみて、千夏と元気は走り出した。もうとっくに息は上がっているけれど、頑張って足を動かす。目標は、消える直前に華奈子が指さしていたあの部屋だ。
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