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赤信号で、彼は立ち止まる。ズボンのポケットに突っ込んであったスマホで時間を確認した。
やばい。予定より五分遅れている。本当は次の電車に乗りたかったのに、これでは彼女との待ち合わせ時間に間に合わないかもしれない。
もう少し余裕をもって家を出るつもりだったのに、ついいつになく気合をいれた身支度に時間を取られて遅れてしまった。
彼は胸ポケットを触る。そこに小さく四角い箱が感じられた。そのことに、ほっと安堵しつつ、歩行者用の信号が青に変わったところで横断歩道を渡りだした。駆け足気味にゼブラ柄の上を歩いていく。
急いでいたこともあった。
プロポーズのことに気を取られて、周りが見えなくなっていたのもあっただろう。
「あっ、危ない!」
後方で誰かの鋭い叫び声が聞こえた。
「え……?」
足を止めて振り向こうとした彼が目にしたものは、目の前に高速で迫ってくる一台の白いセダン。
一瞬、鬼のような形相の運転手と目が合った気がした。
やばいっ、そう思ったときにはもう、身体が宙を舞っていた。
何が起こったのかわからないまま目の前の景色が高速で移り変わった次の瞬間、身体中に激しい衝撃が走る。
道路に叩きつけられたのだと気がついた。
ありえない方向に自分の体が曲がっているのがわかる。息が上手くできない。
でも、目の前の道路に指輪がむき出しのまま転がっていた。胸ポケットに入っていたものが衝撃で転がり落ちたのだろう。
なんとかそれに手を伸ばそうとするが、ちっとも身体が動いてくれない。
手が、届かない。
それが生前に彼が見た、最後の景色となった。
高村元気。享年二十七歳。
よく晴れた、うららかな春の日のことだった。
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