第40話 倒れた晴高

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第40話 倒れた晴高

 ある金曜日の午前中。  いつものように千夏が自分のデスクで仕事をしていると、隣のデスクでタブレットを見ていた元気が声をかけてきた。 「千夏。君の口座に、少しだけどお金入れといた」 「え? あ、うん。ありがとう」  すぐに自分のネット口座の残高を確認してみると、確かに少し増えている。最近、元気はこうやって月に何度か、生活費としてデイトレードでの売り上げを千夏にくれるようになっていた。  とはいえ、元気の食べたものは結局は千夏の胃袋に入るのだし、彼と同居するにあたってさほどお金がかかるわけでもないのだが、元気は生活費を千夏に渡したいらしい。 「順調に利益がでるようになってきたんだね」 「最近はね。俺さ、昔から仕事しないでデイトレードで暮らしたいなってずっと思ってたんだよね。それ考えると、今の生活はあのころ考えてた理想といえば理想なんだよな」 「死んでるけどね」 「そう。死んでるっていうのが、唯一理想と違うんだ」  そんなことを言いながら、元気は笑う。名は体を表すというか、本当に元気は元気な幽霊だなぁと千夏は目を細めた。阿賀沢夫妻が逮捕されたら元気は成仏してしまうんじゃないかと密かに心配してもいたけれど、今のところそんな気配もなさそうだ。 「お前、うちの案件の現場検証も手伝っているしな。本来なら給料も出すべきなのかもしれんが」  と向いのデスクに座る晴高が、パソコンから視線を離すことなく言う。 「幽霊にお給料を出すなんて、前代未聞ですね」  千夏がくすりと笑って言うと、晴高はファイルを片手に椅子から立ちあがり、「そうだな」と返す。  ファイルをキャビネットに仕舞いにいくのだろう。  けれど、晴高はキャビネットの方へ歩きかけたところで、突然ぐらっと態勢を崩した。手に持っていたファイルがドサっと床に落ちる。  とっさに壁に手をついて支えようとしたようだったけれど、そのまま床に倒れこんでしまった。 「晴高さんっ!?」  慌てて千夏と元気は彼のもとに駆け寄る。  ほかの職員たちも異変に気付いて、ざわざわと集まってきた。  床にうつぶせに倒れた晴高はピクリとも動かない。千夏は彼のそばに膝をつくと、その身体を揺さぶった。 「晴高さんっ!! 大丈夫ですか!?」  よく見ると、もともと色白な彼の肌は、血の気が引いたように蒼白だった。 「救急車、呼んだ方がよくないか?」  そばで様子を伺っていた元気の声に、千夏ははじかれたように顔をあげると、 「そうだ、救急車!」  立ち上がってデスクの電話に手を伸ばそうとした。  その際、身体が元気に触れる。 (え?)  急に千夏の頭の中でバチンと何かがスパークした。霊と同調するときの前兆と同じ感覚。  しかし、いまここにいる霊は元気だけだ。彼だけに触れても今までこんなことなんてなかったのに。  …………。  戸惑う千夏におかまいなしに、千夏の視界一面が真っ白く覆われた。  眩しい。事情がわからないながらも、千夏は目を眇める。周りのざわめきが遠くなっていった。  その白い光が収まって目を開けると、見慣れたいつものオフィスの景色に、別の景色が重なって見えた。  昼間の屋外のようだった。柔らかな日差しの降り注ぐテラスにあるベンチ。そこに座って、静かに本を読んでいるようだった。そのとき、ふいに誰かに声をかけられる。 「カナコおねえちゃん!」  名前を呼ばれて顔を上げると、母親に付き添われた五歳くらいの男の子がこちらにやってくるところだった。その子はパジャマ姿で、傍らには点滴をつけたキャスターを引いている。  どうやらここは病院のテラスのようだった。彼らの後ろには、いま彼らが出てきたと思しき大きな病院の建物が見える。  母親がこちらにぺこりと頭をさげてくるので、カナコと呼ばれたその人も頭を下げる。男の子は親し気な様子でカナコの隣に座った。 「ソウタくん。今日は顔色いいね」 「うん。今日はすごくいいの」  ソウタというその男の子はベンチに座るとまだ足がつかないようで、足をブラブラさせながら話し始める。子供用の小さなスリッパが、彼の足から脱げそうになっていた。 「なんのエホンよんでたの?」  カナコが読んでいるのは小説のようだったが、ソウタはきっとまだ本といえば絵本しか知らない年ごろなのだろう。 「えっとね。旅行記、かな。いろんな土地に旅をするお話」  なるべく小さな子にもわかるようにかみ砕いて教えるカナコの言葉に、ソウタは「フーン」とわかってるのかわかってないのかよくわからない返事をすると、また足を交互に揺らした。その拍子に、片足のスリッパが脱げてしまう。 「ぼく、スリッパいやだな。すぐぬげちゃう」  そうぽつりとつぶやくと、カナコを見上げてにっこり笑う。 「ぼく早くよくなって、おそとにでたい! テラスじゃなくて、下のお庭とか、おうちとか、もっともっといろんなとこ」  ソウタの無邪気な言葉に、そばに寄り添っていた母親が一瞬泣きそうなほどに顔をゆがめたのをカナコは見てしまった。慌てて見なかったことにするように、目をそらす。だけどそんなことを知ってか知らずか、母親は一瞬見せた表情とは裏腹に明るい声で返した。 「そのときには、足にあった靴を買わなきゃね。ここに来るときに履いてきた靴は、もう小さくなって履けなくなってしまったものね」  その声は、どこか無理やり明るく保とうとしているような雰囲気があった。でも、母親の言葉に、ソウタは「うんっ」と元気にうなずいた。  場面が変わって、あたりが急に薄暗くなる。  場所は室内のようだったけれど、窓は割れて裂けたカーテンが垂れ、椅子やテーブルがあちこちに散乱していた。  急に廃墟の中に放り込まれたようだ。  人の気配はまったくないように思えたが、部屋の片隅からか細い声が聞こえる。  それはよく聞くと子どもの泣き声で、部屋の隅にある手洗い場の下の収納扉の中から聞こえてくるようだった。  割れた窓から吹き込む風がその子の声をかき消すけれど、風がやんだ一瞬。  その子が、しゃくりあげながらつぶやくのが聞こえた。 「……クツガ、ナイノ……」  …………。  バチン、と再び頭の中に静電気が走るような衝撃があって、千夏は我に返った。  今、視えていたものは何だろう。ここには元気以外の霊の気配なんてないはずなのに、誰と同調して誰の記憶を視たのだろう。  気がつくと晴高は既に意識を取り戻していたようで、床に手をついて起き上がろうとしていた。慌てて千夏も彼に手を貸す。 「だ、大丈夫かい?」  百瀬(ももせ)課長もおろおろと心配している様子だったけれど、晴高はまだ青ざめた顔をしつつも、 「大丈夫です。ちょっと、立ち眩みがしただけですから……」  と、きっぱり答えた。 「でも、すぐに病院行った方がいいですよ。救急車、呼びましょうか?」  千夏の言葉に、晴高はゆるゆると頭を横に振る。 「本当に、なんでもない。ただ疲れが溜まっただけだ……」  本人は大丈夫と言い張るが、はた目で見る限りはとてもそうは見えなかった。  元気に目をやると、彼も心配そうな目で晴高を見ている。 「とにかく、午後は休みとって帰れよ。んで医者行くか、寝てるかしてろ。無理してると早死にすんぞ」  そう幽霊の元気に気遣われて、晴高は黙りこくる。千夏も、 「そうですよ。仕事だったら、急ぎの奴は私でやっておきますから。帰った方がいいですよ」  もうここに異動になってから何か月も経つんだし。晴高が一日くらいいなくても、千夏だけでも仕事は回せる。その言葉に元気も、うんうんとうなずいた。 「そうそう。俺も手伝うしさ」  二人に言われ、ついでに百瀬課長も「そうしたほうがいい」と言うので、晴高は渋々だったが午後は有給休暇を取ってくれた。  彼の体調が幾分落ち着いてから簡単に急ぎの仕事の引継ぎを受けていると、もう昼休みの時間になっていた。帰り支度を始める晴高。外のコンビニに昼ご飯を買いにいくので途中まで送って行こうと思っていた千夏は、ふと先ほど晴高が倒れたときにおこった不可解な出来事を思い出す。 「そういえば、さっき晴高さんが倒れた時。なぜか霊と同調したときと同じようなことが起こったんですよね」 「……なんだって?」  自分のノートパソコンをシャットダウンさせていた晴高が、手を止めて怪訝そうにこちらを見る。千夏は「視えたよね?」と元気に尋ねると、彼もこくんと頷いた。 「なんか病院のテラスみたいなとこだった。ベンチで小さな男の子と話してて、若い女性の記憶みたいだったな。なんだっけ、男の子がその人の名前呼んでたよな。えっと……か、か……」 「カナコおねえちゃん?」  と、千夏。 「そう! カナコおねえちゃんって呼んでた」  それを聞いて、切れ長な晴高の目が大きく見開かれ、驚いたように千夏たちを見た。 「カナコ……?」 「晴高さん、心当たりあるんですか?」  晴高はサッと千夏から視線を逸らす。しかし、その瞳は、彼にしては珍しくおどおどと不安げに彷徨(さまよ)っていた。 「まさか、そんなことって……」  そう呟くのが聞こえたが、元気が「知り合い?」と尋ねると、少しあってから晴高は首を横に振った。 「いや、知らない」  やけにきっぱりと否定されたものだから、それ以上は千夏も元気も追及はできなかった。その後、一緒に会社を出ると、駅の方向に歩いていってコンビニの前で分かれる。 「ちゃんと休めよー」  そう声をかける元気に、晴高は「ああ」と小さく答えると駅の方へ歩いて行った。  その後ろ姿はいつになく生気がないように感じられて、千夏の胸にチクリと不安が広がる。彼の姿が人ごみの間に見えなくなってから、千夏は元気に聞いてみた。 「ねえ。元気も見たよね?」 「ん?」 「さっき晴高さんが倒れたときに見えた記憶の……一番最後」  あれは、荒廃した室内の景色のようだった。そこの手洗い場の下で閉じこもっていた子ども。なぜあんな場所に子どもが一人でいるのか、理由はさっぱりわからない。ただ、泣き声とほんの一言しか聞こえなかったけれど、あの声はもしかすると初めの景色に出てきた男の子、ソウタくんなんじゃないかなという気が強くしていた。 「俺も見た。でも……すごく禍々しい雰囲気を感じて、晴高には言えなかったな」  なんだか良くないことが起きようとしているようで、不吉な予感がいつまでも心のどこかにこびりついては離れなかった。
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