36人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話 花びら
はらはらと舞う桜を見ていると思い出す光景がある。
それは季節違いの夏、迷子になった幼い頃に見た美しい庭園。
『どこから来たのだ? なぜ泣いている?』
7・8才の見知らぬお兄ちゃんが心配そうに声をかけてくれた。
桜に似ているけれど少し違う花が、綺麗に整えられた緑の木々をバックに散っていた。
それはそれは美しくて、夏休みに母の実家へ行くたびに探した。けれど、そこには2度と行くことはできなかった。
誰も信じてくれなかった。今では亜結もあれは夢だったのかもしれないと思うその場所。
あの男の子と何か大事な約束をした。それが何だったのか思い出せない、そのことがほんの少し気にかかる。
「乙葉さん?」
大学のキャンパスを歩いていた亜結は、ふいに声をかけられて振り返った。
「ああ、やっぱり乙葉亜結さん」
声をかけてきたその人を見て亜結はどきりとした。
顔立ちの良い爽やかな好青年がこちらに笑顔を向けている。
(うそっ!)
この間から気になっていたサークルの先輩が、こちらへまっすぐやって来るのを見て固まった。
彼に釘付けになり固まっている亜結を見て、笑顔だった彼が少し慎重な表情に変わる。
「僕のこと、覚えて・・・る?」
亜結は声も出せず首振り人形のように小刻みにうなづいた。
忘れるはずがない。
大学のサークル勧誘で声をかけられたあの瞬間、どきゅんと心を持っていかれたのだから。
一緒にいた親友の姫花が、
「どストライクね、亜結」
と、耳打ちした事を覚えている。
「こ・・・こんにちは」
キャンパス内を歩いていれば出くわすこともあるだろう。でも、気を抜いてぼーっとしている最中に出会うとはなんということか・・・・・・。
(変な顔してなかったかな?)
自分の心臓の音が聞こえはしないかと、近づく彼から亜結は一歩後退した。それを見て彼も立ち止まる。
「秋守先輩、ご・・・無沙汰しています」
ぎこちない亜結の返答に秋守が小さく吹き出した。
(しまった!)
恥ずかしさに心臓が止まりそうだ。
「これはこれは、ご丁寧に」
武士のような所作で応じた秋守が、真面目な表情から一転こぼれる笑顔を見せる。
「良かったぁ、忘れられてなくて」
(うわぁ! ・・・少年っぽくて可愛い)
真っ直ぐに向けられる屈託のない笑顔。これまた亜結の図星をつらぬく。
「部室には顔出せてる?」
「は、はい」
「そうか。僕もなるべく毎日顔を出すようにしてるんだけど、なかなか会えないね」
少し残念そうな秋守の顔に亜結の心が跳ねる。
(私のことを気にしてくれてたの? 私に会えなくて残念そうにしてる?)
そこまで考えて否定する。
(いやいや落ち着け、社交辞令だよ亜結)
秋守の二重でぱっちりした目がこちらを見ている。ややつり上がった目尻が凛々しさと涼やかさを印象づけているようだ。
ふたりで会話をしているのだからこちらを見ているのは当たり前のことなのだけれど、彼の視界に収まっていると思うと亜結は落ち着かなかった。
「誘っておきながらフォロー出来なくてごめんね」
「いえ、そんな・・・」
自分の顔が強ばっているとわかっている。自覚するからこそ更に表情が固まってしまう。
「部室の居心地はどう? 顔見知りがいないと行きにくいかな」
亜結はかろうじてうなずく。
「そうだよね、ごめん」
謝る秋守に対して亜結は首を振り手を振ってみせる。どうにも声が引っ掛かって出てこない。
「あ・・・謝らないでください」
なんとかそれだけ言えた。もう口の中がカラカラだ。
「そうだ、連絡を取り合って行けばいいよね」
そう言って秋守がスマホを取り出す。それを見て亜結も慌てて鞄に手を滑り込ませた。
(うそぉ、どうしよう!)
嬉くてどきどきして頭がぐるぐるする。
仮入部ということで書類の連絡先欄は書かないままだった。書いておけば良かったと少し後悔していたが、今この瞬間良かったと亜結は思った。
親友の姫花以外サークルのメンバー誰とも繋がっていない今、秋守とだけ繋がるこの特別感に体が震える。
武者震いを吹き飛ばそうと亜結は首を振った。そんな亜結の仕草を見ていた秋守の顔から笑顔が薄れる。
「あ、よく知らないのに連絡先を交換するのは嫌・・・だよね?」
スマホを握る秋守の手が胸元からゆっくり下ろされていく。
気まずそうな秋守の声が耳に入って、亜結はまた慌てて首を振った。
「いや・・・」
「・・・そう、だよね」
「い、嫌じゃないです!」
必死に出した亜結の声は思ったよりも大きくて、周りの人の視線を集めてしまってはっとする。
「あ、え・・・えっと」
恥ずかしくてもじもじとしている亜結の様子を、秋守はほっとした笑顔で見ていた。
「じゃ、お願いします」
秋守は手にしたスマホを自分の顔の横に持ってきて、軽く振りながら微笑む。
少し恥ずかしそうに見えるのは亜結の恋フィルターがかかっているからだろうか。
連絡先を交換してスマホを確認する。
「はい」
亜結がそう言ってスマホから顔を上げると、亜結を見ていた秋守の目が慌てて逃げた。
「ここの桜きれいだね」
秋守は取って付けたようにそう言った。
ほんの少し落ち着かなげな彼の気配に、自分への恋心があるのではないかと思ってしまってまた打ち消す。
「今日の歓迎会は知ってるよね?」
秋守と亜結を繋いだ読書サークル、その歓迎会。
「はい、部室のホワイトボード見ました」
亜結も心を落ち着かせようと彼から目をそらしながら会話を続ける。
「行ける?」
「はい」
「・・・待ち合わせて」
「友達と待ち合わせて・・・」
「あっ」
「え?」
言葉が被った。「待ち合わせ」のワードに互いに顔を見合わせて、目が合って互いに顔をそらす。
「いや、いいんだ。友達と一緒に行くんだね」
「あ、はい」
襟足をなでる秋守の恥ずかしそうな気配が伝わる。
「じゃ・・・じゃあ、また後で」
「はい、また後で」
後でと言いながら本当はもう少し話がしたい。だから直ぐに背を向けられなかった。
(さっき一緒に行こうって言おうとしませんでしたか?)
そう聞き返したい。迷う時間はほんの数秒のこと。
亜結が帰ろうとふり返りかけた時、伸ばした秋守の手が亜結の頬に触れた。
(え・・・!?)
驚く亜結と秋守の目が一瞬交わる。
「花・・・花びらが、髪に。ほら」
ひとひらの桜の花びらを見せて秋守が微笑む。秋守の手がかすかに触れた頬が熱かった。
「先輩も」
秋守の肩に乗る花びらを軽く払って亜結は踵を返した。我ながら大胆な行動だと亜結は気恥ずかしかった。
遠ざかる彼女の背を秋守がしばらく見ていた事を、亜結は知らない。
最初のコメントを投稿しよう!