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始まりの月曜日
月曜日 午後17時50分
彼女はガスの火を止め、鍋に蓋をした。
割烹着を脱ぐと、飛び兎の柄が描かれた抹茶色の着物が現れる。結った髪を解くと、艶のある黒髪が背中まで落ちた。
美しい女性だった。
見るからに滑らかでしっとりした白い肌に、長い睫毛と切れ長の瞳。身体は細くて線はしなやか。おしとやかでありながら、同時に芯の強さも感じさせる佇まい。その容姿はまさに〝大和撫子〟だ。
「……っ!」
不意に、彼女の目がピクリと動いた。
桜色の唇をそっと開いて、
「……来た」
鈴の音のような声がそう呟いた。
その瞬間、
「ぎゃあああああああああーーっっ!!!」
家の外から悲鳴が聞こえてきた。
彼女は割烹着を机に置き、早足で廊下に出た。
玄関の戸を開ける前で一旦止まる。手鏡を取り出し、髪と服が乱れていないかチェックして、それから引き戸を開けると、
「日葵ぃぃぃぃ!! また落とし穴を掘ったなぁぁぁ!?」
玄関前で、深さ約1.5メートルの穴にハマっている男がいた。
日葵と呼ばれた女性は不思議そうにキョロキョロする。ニヤける口元を着物の袖で隠しながら。
「おやおや? どこからか、おバカの声がしますが姿が見えません。これは怪奇現象でしょうか?」
「見えないフリするな!」
日葵はわざとらしく目を丸くする。
「あら、由太郎ではありませんか。どうしたんですか? そんな低い所で尻もちをついて」
「お前が作った落とし穴に落ちたんやろ!? つーか毎回よく掘れるな! 毎回落ちる俺もアレやけどな!」
「べ、別に貴方のために掘ったんじゃないんですからね! 貝塚を作ろうとしていただけなんですからね……!」
「何そのデレ方!?」
「冗談です。……で。私に用があって来たのでしょう? 今日は何ですか?」
「うっ……」
由太郎と呼ばれた男は気まずそうに俯いた。
「……ご」
「え? 聞こえませんよ?」
「……ご飯、食べさせてください……」
由太郎の腹が大きく鳴った。
ーーーーー
「ああああ生き返ったーー! 今度こそアカンかと思ったーー!」
「貴方は相変わらずですね」
日葵は呆れた顔で言う。
ちゃぶ台に並べた料理はすぐになくなった。日葵と由太郎の間には空になった鍋と釜。ついさっきまで、出来上がったばかりの肉じゃがと炊きたてのお米が入っていたのに。
「また負けたんですか?」
「いや、勝ってたんやだけど……。最後に一発逆転されて」
「勝っている時点でやめておけばいいものを……」
「そういうドラマがあるからワクワクするわ」
「考え方がもはやサイコパスですね」
由太郎がこちらで知り合った連中と、賭け事で遊んでいるのを日葵は知っている。そして彼がしょっちゅう負けて一文無しになっていることも。
「いつも悪いな。いつか倍にして返すわ」
「その〝いつか〟はいつ来るんですかね?」
「じゃあすぐに出来ることからやるわ。何か手伝うことないか?」
「そうですか? では明日、用事を頼まれてくれますか?」
「おー、任せろ」
由太郎は笑いながら畳の上に寝転がる。天井を見上げる赤い目はトロンと重たそうだ。
「眠いんですか?」
「ん」
「部屋に布団を敷きますから、そこで寝るのはやめなさい。風邪ひきますよ」
「んー……」
「由太郎」
「……」
「こら」
「……」
「おやすみ3秒ですか……」
聞こえてきた寝息に、日葵はため息を吐く。
金無し。
職無し。
宿無し。
それが由太郎だ。
つまり、絵に描いたようなダメ男。
出会ったのは半年前。
由太郎が境内のそばで倒れているのを、日葵が見つけたことがキッカケだった。
日葵の実家は首都にある大きな神社で、そこから派生した田舎の分社に日葵は派遣された。
引っ越してきてから、わずか1ヶ月目の夜。
神社敷地内の平家にいた日葵は、外に不思議な気配を感じた。
まだ慣れない田舎での1人暮らし。日葵の胸がざわつくのは当然だった。だが放置するわけにもいかず、不安な気持ちで日本刀 (※1 本物)(※2 護身用)を持ち出して(※3 違法)、表の境内に向かった。
すると彼がいたのだ。
石畳に散らばる髪は真っ白で、ぼんやりした瞳は紅色だった。
全身黒い服を着ていて、年齢は20歳前後。
日葵はすぐに分かった。
この彼はあちら側の存在だと。
人ならざる者たちが暮らす世界からやって来た妖なのだと。
男には妖特有の耳や尾が無く、人の姿をしているが、纏う匂いが明らかに人間ではなかった。
(まさか〝半妖〟?)
それは、人と妖の間に産まれた非常に珍しく、そして穢らわしい混血だと差別される存在だった。
「やれやれ……」
あの日の夜を思い出し、2度目のため息をつく。
不吉、不穏、呪いの象徴だと疎まれる半妖と出会い、日葵の生活は変わってしまった。
ご飯を大量に作るようになった。
由太郎はよく食べるのだ。しかし彼は毎日ではなく、突然ふらりとやって来る。最近では何となく来るタイミングが分かるようになったが、勘が外れた日は大変だった。作ったものを女1人で処分しなければならないから。彼のせいで体重、食費、手間と時間など、あらゆるものが増えた。
(なのに私は、彼を追い返せない)
それどころか、心のどこかで由太郎を待っている。
いつ現れるか分からない男のためにきちんと服を着て、薄く化粧をして。この前までは、仕事が終われば身なりなんかどうでも良かったのに。
自分と彼の噂は町で広まっているようで、最近はいろんな人にこう訊かれる。
〝どうして貴女のような女性が、あんな男の世話をしてやるのか?〟ーーと。
この町の人たちは由太郎が半妖だとは知らず、ただのニートだと思っている。
(妖は赤や緑、紫の髪色が多いけれど、由太郎は白髪でよかった)
彼は運良くアルビノの人間だと誤魔化せている。
〝日葵さんが町に来てから、神社に賑わいが戻ったよ〟ーーこれもまた、最近いろんな人に言われる言葉。
この町の商店街は奥行きがあり、その最後まで歩くと突き当たりに神社がある。
神社は86段の階段を上らないと、鳥居まで辿り着けない。
わざわざそんな高い場所まで行き、お参りをする者は少なかった。
しかし引っ越してきた日葵の美しさはすぐに有名になり、彼女を一目見るため、参拝者が増えた。
特に男性が多く、彼らにとって86段の上にいる日葵はまさしく〝高嶺の花〟だった。
日葵自身も、自分がモテると自覚している。昨日も1人の男性に告白された。この町の地主の息子で、金も職も大きな家も持っていて、顔立ちが整っていて、しかも優しい人だった。
でも断った。
その帰りに、今さっき由太郎が食べた肉じゃがの材料を買った。
女性なら誰もが羨む告白を断った理由はーーーー。
「このやろう」
すやすや眠る由太郎の鼻を、日葵はつまんだ。
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