第1編 猫

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第1編 猫

 それは一日じゅう雨の降る日だった。じとじととして嫌らしい感じの雨粒が、大量に落ちてきて体温を奪う。寝不足で、休日出勤した身には堪える。早くシャワーにかかって、家の中で眠りたい。住んでいるアパートまで、もう少し。この階段を下りればすぐだ。  階段は、土の斜面に丸太で段を作ってある。ところどころ、段が崩れて丸太が斜めに傾いている。雨の日は地盤が緩む。油断して足を踏み込むとズルッといって、さらに階段を壊してしまう。慎重に一歩ずつ歩こう。  日曜日の夕方四時を少し過ぎた頃、三井遼太はその階段を丁寧に降りた。アパート入口の共有扉まで何とかたどり着くと、濡れた取っ手を回して引っ張った。キーッと音がしたのは、錆びており、年季が入っているからだ。アパートの敷地に入り、自分の部屋の入口に近付いたとき、アパートの陰から、何か真っ黒な陰が飛び出してきた。  その陰は、一瞬で遼太の足下にたどり着き、右足の脛に絡みついている。足下から、ニャーニャーと大きな声がしている。 「そうか、これは猫か」  理解するまで数秒かかった。好かれているのは悪い気はしない。しかし、全く腑に落ちない。猫に近付いたら、警戒して逃げるのが普通なのに、向こうから寄ってくるなんて、不思議だと思った。しかも、遼太は野良猫に餌をあげたり、危険から救ったりした記憶はないので、全く知らない猫のはずなのだ。  突き放すのはかわいそうだから、もう少しこのままでいよう。遼太は、早く家に入って眠りたいのを我慢して、そのままずっと立っていた。五分位経っただろうか。状況は変わらず、猫は足下でスリスリしながら、大声で鳴き続けている。背中の毛は、ずぶ濡れで寒そうだ。このスーツのズボンはクリーニングした方が良さそうだ。  ドアが開き、隣人の中年男が顔を出した。普段から、特に関わり合いのある人ではない。こちらを見て「なるほど」という顔をして、何も言わずドアを閉めた。猫の鳴き声が続くから、何事かと思ったのだろう。  何か愛おしくもあるが、このままじっとしている訳にはいかない。遼太は自室の玄関に背を向けて、アパートの敷地外へ出た。もう、雨はほぼ止んでいた。猫はこっちをキョトンとした目で見つめている。  アパートから、地盤の緩んだ階段を二、三歩降りると、コンクリートの道に出る。そこから右へ行くと、森を貫通するように作られた道がある。そこは、両側に繁っている高い木の枝葉が、道の上部を完全に隠し、トンネルのようになっている。  遼太がトンネルに入って行くと、猫は少し離れてついて来た。少し見つめ合い、遼太は目で「バイバイ」と訴えた。そして、猫に背を向けて、さらに歩くと、猫は付いて来なくなった。止まってこちらをジーッと見ている。 「懐いてくれてありがとね」  遼太は心の中でつぶやいて、トンネルの先に進んだ。振り返ると、もう猫はいなかった。鉢合わせしないように、少し時間をつぶして、帰ることにした。  トンネルを抜けると、回り道して、地盤の緩んだ丸太階段の上までたどり着くルートがある。その道を通って帰ることにしよう。少し大回りだが、時間が経てば、あの猫は少しでも遠くに移動しているだろう。  途中の自動販売機で、冷たい缶コーヒーを買って飲みながら、さらに時間を費やした。  回り道して時間が経って、再びアパートに着いたときには、もう猫はいなかった。時計を見ると、五時過ぎだった。夕方といえども雨雲が控えた空は、もう暗かった。  あんなに懐いていても、離れると付いて来なくなって、本当に聞き分けの良い猫だったと思う。アパートが、ペット禁止でなければ、飼って一緒に住んでも楽しかったろうな。けれど、仕事に出ている時に一人、いや一匹で部屋に置きっぱなしにしないといけないから、やっぱり無理か。  そんなことを思いながら、自分の家の鍵を開け、中に入ってドアを閉めた。  そう、確かにドアを閉めた。しかし、何かが違う気がした。閉まる直前に何かが、すばやく家に入って来たような気がするのだ。  まさかと思って視線をずらすと、さっきの猫が、畳の上に座ってこちらを見つめていた。 「何てことだ…」  家のそばでずっと入るタイミングを窺っていたのだろうか。暗くて全く気付かなかった。  つまみ出して外に出すのはあんまりだと思うが、このままにしておいて、声を出して鳴き出されると、隣から苦情が来るだろう。このアパートは古く、壁が薄いので、隣家の音は生活音でさえ、よく聞こえるのだ。  ただ、今はいい子に大人しくしている。まさかとは思うが、この猫は分別があるのかも知れない。ちょっと、餌をあげてみようか。  冷蔵庫を覗くと、普段は外食ばかりなので、やっぱりほとんど空。しかし、牛乳はあった。あまり好きではないが、たまにはカルシウムを摂らないといけないと思って買ったのだ。まだギリギリ賞味期限内。これをあげてみるか。  遼太は、厚めの皿に牛乳を注ぎ、猫の前に差し出した。猫は小さな舌を出し、ペロペロと舐めて、とても小さな声で「ニャー」と鳴いた。気持ちよさそうに鳴いたから、きっとおいしかったのだろう。  牛乳を飲んでいる猫を見ながら、遼太は考えた。今のところ、小さな声しか出さないし、大きな声で鳴き出すまで、様子を見ることにしようか。  トイレはどうなるのだろう。猫を飼ったことないから、よくわからない。  風邪をひかないように、タオルで体を拭いてあげた。部屋が汚れないように、足の裏の肉球も拭いた。拭いている間、猫は大人しく、遼太を見つめていた。  そして、押し入れから電気ストーブを取り出して、スイッチを入れた。ストーブの前で、猫は温かそうにしている。  やがて、遼太に眠気が襲ってきた。とりあえず寝よう。今日の日曜日は休日出勤で、非常に疲れていた。明日の月曜日も普通に朝から会社に行かないといけないから、寝ておかないと。そう、通勤カバンだけは、天井に近い棚に入れておこう。おしっこされると取り返しがつかないから。あとは、電気ストーブのスイッチを切って、コンセントを抜いて。熱源を奪われた猫には、毛布をかけよう。しばらく使っていない古い毛布がある。  何とか、それらのことを済ませ、遼太は眠りに落ちていった。
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