第1編 猫

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 夜の九時半頃に目が覚めた。朦朧とした意識のなか、今日は色々あったような気がした。なんだったっけ…?  段々と記憶が戻ってきた。そうだった。  猫は?  遼太が辺りを見渡すと、畳に直置きされたテレビの前で、その猫は眠っていた。無防備にお腹を出していた。睫毛の長い両目は、穏やかに瞑られている。こうしてみると、とてもかわいい。  少し空腹を感じた。弁当でも買って来ようと思うが、どうしようか?  この猫ちゃんが寝ている間に行って来よう。  遼太は靴下を履き、音を立てないように玄関のドアを開け、ソーッと外に出た。出掛けている間に起きて、大声でニャーニャー鳴いたら大変だ。早めに帰って来よう。  じめじめした丸太階段を慎重に上がり、やっと普通に歩ける道に出て、それから十分くらい歩いて、コンビニエンスストアに到着した。選択肢は色々あるけど、コストパフォーマンスを考えて、やはり今日も「のり弁当」になってしまう。それと、しょうゆ味のカップ麺。弁当一つでは足りない。  レジに行く途中で、猫用の食べ物を見付けた。コンビニにもこんなの置いているんだ…と思った。そこからツナ缶とソーセージを手にとって、自分の夜食と一緒にレジに置いた。  会計のあとに、いつも通り「ありがとうございました」と言われた。いつも通り、何も言わずに立ち去った。本当は、いつも「こちらこそ、レジで処理してくれてありがとうございました」と言いたい。しかし、他にそう言っている人はいないので、言わないでいる。間違いなく、変な人扱いの目で見られそうな気がするからだ。店員さんも喜ぶどころか「何だ? この人は?」と思うだろう。  コンビニを出て、街灯まばらな夜道を歩く。大学生らしき集団の笑い声が遠くから微かに聞こえる。空には雲一つ無く、月がはっきりと見えるようになっていた。月は、だいぶ丸く膨らんでいるが、満月には少し足りない。 「すいません」  もう少しで家に着こうかという頃に、声をかけられた。ビクッとしたが、ここで怯えたら危ない。平静を装って対応した。 「はい?」  どうも、警官のようだ。 「どちらに行っておられたんですか?」  職務質問らしい。何も疚しいことはしていないから、堂々と答えた。 「ちょっと、コンビニへ買い物に」  警官は、遼太の頭からつま先まで、ジロリと眺めて、反応を窺うように言った。 「そうですか。では、気を付けてお帰りになって下さい」  遼太は「はい」と答えて、動揺を隠して、振り向かずに家に向かった。  職務質問など、今の家に住んでから初めてだ。珍しいことが起きるときは重なるものだと思った。  自分の家の玄関の前に立ち、耳を澄ます。とても静かだ。玄関のドアを開けて中に入る。  寝ているだろうと思ったから、予想外の光景に一瞬驚いた。猫は行儀よくテレビの横に座り、大きな瞳でこちらをジーッと見ていた。 「猫って結構頭がいいのかな?」と思った。  大きな声で鳴くと、俺が困るから、それを分かって、おとなしくしているように見えて仕方ない。  猫の絵が描いてあるツナ缶を目の前に出すと、猫は一瞬「えっ?」というような表情をしたような気がした。そして、その後すぐに、ニコッとしたように見えた。袋入りのソーセージを目の前に出すと、明らかに喜んで、手を出そうとした。袋に入ったままでは食べられないから、いったん取り上げた。 「今、準備するから待っててね」  そう小さな声で言った後、遼太は皿を洗い、ツナとソーセージを、それぞれ半分くらいずつ取り出して盛りつけた。猫の前に差し出すと、勢いよくあっという間にたいらげてしまった。 とてもおなかが空いていたみたいだから、皿を持って台所へ戻り、残りのツナとソーセージをすべて盛り付け、山盛り気味になった皿を猫の前に置いた。  猫の目はこっちを見て「ありがとう」と言っているように見えた。のども乾くだろうと思ったから、厚めの皿に水を入れて、猫の前に置いた。猫はゆっくり丁寧に食べていた。牛乳も買ってくればよかったな。  明日の朝は、仕事に行かないといけない。一日中、家には閉じ込めておけないから、出かけるときに一緒に外に出すしかないだろう。今晩だけは一緒にいようか。 「ねえ?」と猫に話しかけると、猫は首をかしげて、頭の上にクエスチョンマークが、2つくらい浮かんだような顔をした。  猫が食べ終わったことを確認して、汚れた皿を台所へもっていき、汚れては困るスーツなどを押し入れにしまった。  猫に「今晩だけは一緒にいよう。明日の朝はお別れよ」と言って、電気を消した。  翌朝、遼太は目が覚めた。強い日差しが、窓から差し込んできており、すぐに出発しないと遅刻する時刻だった。いつも通りだ。いつもと違うのは、猫がおなかの上に黙って乗っていたことだった。 「おはよう」  遼太が言うと、猫はニャと返事した。遼太は急いで着替えて、玄関のドアを開けて、猫に向かって手招きした。 「おいで」   猫は部屋の奥から一歩も動かず、こっちを見ていた。時間がないので、遼太は猫に近づき、おなかを抱え上げて、一緒に外に出た。無茶な運び方ではあったろうが、暴れずに従ってくれた。  急いで外からドアを閉め、鍵をかけて、猫を下ろし「じゃあね」と言った。あとは、気持ちを割り切って、駆け足で、乾ききっていない丸太階段を上がって行った。  気持ちを割りきったのに、猫は走って付いて来た。階段の上まで付いて来た。遼太は、気付かない振りをして「しっかり生きるんだよ」と心の中でつぶやいて、駅への道を急いだ。振り返りたいけれど、ここで時間を取ってしまうと、完全に遅刻してしまう。  駅前の商店街に差し掛かり、遼太が振り返ると、もう猫はいなかった。だいぶ寂しい。でも、こんな奇跡が起きるんだ。見知らぬ猫に突然懐かれて、一晩一緒に過ごすなんて。  今から行く職場の奴らに話しても、まともに信じてくれないだろう。男のくせに夢見がちな奴だと思われて、どうせバカにされる。由紀に聞いてほしい。由紀は、きっと信じてくれるし「本当に、すごいことがあったんだね」と言ってくれる。由紀とはずっと一緒にいたかった。由紀と会えなくなってから、今は九か月くらい経つ。
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