02 2173年12月 ヒンクリーポイント

1/1
279人が本棚に入れています
本棚に追加
/237ページ

02 2173年12月 ヒンクリーポイント

「ハロー、フィオナ。あたしは由美香。由理亜の中のもうひとつの人格。これから話すことは英国陸軍の軍事機密。誰かに話せば舌を抜かれて一生禁固刑。覚悟して」 「フィオナ、わたしには心がふたつある」  由美香は百グラムのニューロウェアだ。戦術支援補助人格実験体。わたしの遺伝子から培養された高機能演算複合体。母がわたしの海馬を包むように、そっと埋め込み、わたしの脳の障害を修復した。二千百七十三年。人類がPTSDにおちいった年。ムーン・クラッシュ。月が落下を始めた年だ。  二千百七十三年十月、太陽の向こう側、射手座方向で発見されたとき、マードック・ペレイラ彗星はすでに木星軌道を横切っていた。  軌道はほぼ直線、秒速二百キロで太陽に突入する。観測史上最高速の彗星だ。そんな速度で追尾できる観測機など存在しない。しかし、金星と水星軌道の観測システムを向けるだけ充分だ。メディアは彗星の太陽突入のスペクタクルだけを求めた。地球からはほとんど見えない彗星。太陽の向こう側のできごとなのだ。  だから、太陽近傍での激しい水蒸気とダストの放出で、彗星の軌道が太陽への突入コースから外れることも、その進路が地球に向くことも、予測できなかったのは不思議でもなんでもない。近日点で加速されたマードック・ペレイラ彗星は、地球軌道までの一天文単位(AU)をわずか一週間で駆け抜けた。近日点速度は秒速二百十五キロ。追尾も、破壊も不可能だ。  見上げると、太陽の脇に忠実な猟犬のように小さく彗星が控えていた。日ごとに、その大きさと輝きは増していく。  大き過ぎる視線速度。頻発する非重力効果でゆらぐ軌道。背後の太陽は巨大な観測ノイズの発生源だ。衝突地点も衝突時間も正確に予測できない。  発表される時間も場所も目まぐるしく変わった。発表される衝突予想時間には十二時間以上の開きがあった。衝突地点はハワイ沖からシベリア、ユカタン半島、四川省へ移り、そして、中央アフリカへ。  級数的に増殖するデマと誤情報。しかし、暴動やパニックはほとんど起きなかった。どこへ逃げるのか?あの運動量が地表で開放されれば、逃げる場所などどこにもないのだ。誰もがありったけの食料と酒を持ち出し、公園や浜辺でパーティーを開き、朝まで歌った。  衝突の四十八時間前、近日点からずっと蓄積され続けた熱で、彗星核から質量の十分の一に近い蒸気とダストが噴出し、地球軌道への進入角は、大きく〇・五度それた。  もっとも、その頃には、そんなことに注意を払うものは誰ひとりいなかった。  空にならぶ二つの輝き。  不眠で充血した目には、どちらが本物の太陽か見分けがつかない。  同時に発表される複数の衝突予想地点。  理性はとうに干上がっていた。  十月二十九日、衝突の日、先行する彗星の尾が、天頂から南へ流れた。  その先にあるのは月齢二十二の下弦の月だ。  地球への衝突コースを外れたマードック・ペレイラは月を貫いた。  彗星核は強烈な電離放射線を放ちながら、月の中心までほとんど減速することなく突き進み、巨大な運動量を解き放つ。衝突地点から白熱した円錐が太陽に向かって伸び上がる、高さ五十万キロの光の柱。  二十秒後、対蹠点からも二十万キロを越える白熱した円錐が立ち上がる。  核が月を貫通したのだ。  白道は放出物(イジェクタ)で輝き、渦巻き、昼も夜も空を灼いた。  三基の軌道ステーション、建設を開始したばかりの軌道エレベータも喪われた。短い期間、地球を取り巻く輪が生まれた。  放出物(イジェクタ)が降り注ぎ、地表にはクレータがうがたれ、すべての通信衛星とGPS衛星は破壊され、通信ネットは寸断され、日照時間が減少し、食料が不足した。暴動がひっきりなしに発生して……。  どこかの国の王族が、火星行きのロケットを盗み逐電した。テルアビブとモスクワで核弾頭が炸裂した。ウクライナの穀倉地帯が未知のウィルスで全滅し、修復するために散布された分子機械が制御不能に陥った。核物質が盗まれ、炭疽菌が撒き散らされ、原潜が盗まれ、国境が閉ざされ、いくつも政府が破産し、難民が虐殺され、難民に町が占拠され、死者は七億人を超えた。多国籍企業がいくつも破綻した。  もっとも、それは手始めに過ぎなかった。  月が落ちてくるのだ。  軌道前方から彗星に貫かれ、軌道速度を奪われた月が、地球に落下を始めていた。年々軌道半径を縮めながら落下し、激突まで最短で十年、最長で十五年。最初はごくごくゆっくりと。地獄は最後の三年だ。  そのニュースはふたたび理性を灼きつくした。  世界はパニックに沸きたち、暴動、略奪、紛争はとどまるところを知らなかった。  今でこそ月の衝突は百五十年後と知られているが、軌道上の観測手段が失われ、彗星の激突(ムーン・クラッシュ)で科学の予測能力の限界をいやというほど思い知らされていた当時、誰もがその暴露を信じた。  わたしの母は信じなかった。  母は畏れたのだ。月の落下と、どうしようもない世界に、脳に障害をかかえた娘をさらすことを。  わたしの母一条咲香(さやか)は日本の陸上自衛隊の生体素子エンジニアで、英国陸軍との共同研究のプロジェクト・マネジャー。機動外骨格のようなハードウェアに頼らない高機能兵士の研究開発。ニューロウェアの設計者だ。研究は、ヒト以外の霊長類で得られた良好な実験結果を足がかりに、さらに一歩踏み出していた。ヒトへの応用だ。  脳に展開した超伝導ナノ・メッシュで神経伝達速度を伸張させたコネクトーム。ホルモンを利用した神経回路網の調整と身体制御。骨格と筋肉の最適化。海洋生物から培養したヘモグロビン類似体で通常の十倍以上の酸素をドーピングして……。  母はその研究成果をわたしの身体に実装した。軍事機密を。ニューロウェアを。有機知性体を。脳に障害をかかえたわたしが、母や社会の庇護もなく、落下する月の下で、一人で生き抜いていけるように。英国陸軍にも陸自にも許可を求めることもなく。スキャンダルを恐れず、非難を恐れず、孤独を恐れずに……。  わたしは二千百六十年のパンデミック、トリノウィルスの生き残りだ。  ウィルスが引き起こした急性脳症は、海馬とブローカ野に損傷を与え、わたしから心を奪った。そして一次運動野の伝導経路を絶ち、わたしから身体を奪った。  感情はわたしの中で波を立て、渦巻くが、わたしは言葉にアクセスできないから、わたしの外には出られない。なにも表現できない。なにも伝えられない。  口に食べ物が入れば反射的に咀嚼し、飲み下す。光があれば光の方に顔を向ける。口の悪い看護師が、わたしを「できの悪いパペット」と呼んだ。九歳のときだ。その瞬間をはっきり覚えている。わたしは、そのとき、指一本動かさなかった。表情も変えられない。あのくやしさは忘れられない。  母はわたしの脳をモニタしていた。わたしには感情があり、言語や知識は学習できるのに気がつくとすぐに、言葉を教え、数学を教え、音楽を聴かせてくれた。 「いつか、あなたの人生を取り返すから」  繰り返かえすその言葉は、しだいに熱を帯び、やがて苦い呪文の響きを帯びた。  ニューロウェアは、脳の生理的限界を超えて、膨大な戦術データを高速処理する兵士の補助人格として開発された戦術支援体だ。戦闘中、兵士の生来の意識は後方に退き、ニューロウェアが兵士の行動を制御する。兵士の生来の意識は戦闘時のストレスやトラウマを回避できる。 「あなたの新しい友だち。ヒトの四倍の速さでものを考えられるのよ」  母はニューロウェアの実装と同時にわたしの脳を修復できると考えたのだ。  ニューロウェアは、わたしの頭蓋骨に埋め込まれた大容量の薄層ストレージに自分の作業領域をつくり、その領域を《YUMIKA》と名付けた。  分子機械が超伝導ナノ・メッシュを展開して、わたしのコネクトームをトレースする。五日を費やして、すべてのニューロンの結合を追い、何万種類ものジグソーパズルをぶちまけたような、記憶と言葉へアクセスし、整理し、タグ付けし、インデクサーを走らせて一次的な分類スキームを構築し、暫定的なマインドマップを描き出した。  しかし、硬直したクロスリファレンスは危険だ。ロボットを作るわけではないのだ。  不合理で一貫しない情動、妥協と飛躍、矛盾した情理の絶え間ない動揺。アルゴリズムとしては記述できないが、それは有機体としてごくごく正常で、合理的なふるまいだ。心はそこに踏みとどまり成長を求められる。記述不能で予測不能なその挙動を、有限数の論理ゲート、水分子のなかの脆いイオンチャンネル、たかだか千五百グラムの有機素子の上に生みだすのだ。  だから、慎重にやろう。初期状態のネットワークに流れる波に、サイコロをふって、ゆらぎを与え、新しい道と空間を与えてやる。隘路も作ってみる。袋小路も。何度も何度も何度も反復する。機能性RNAがニューロンの結合を淘汰し、新しい結合を作り出す。何度も何度も何度も。  変容するコネクトームのなかで、ニューロウェアも独自のネットワークを開始する。陸地に最初の一歩を踏み出す水棲生物のように、前頭前皮質に結合し、おずおずと最初のシグナルを送り出す。反復と跳躍を繰り返し、袋小路を越え、迷路を抜ける。ブーツのヒモを引いてネットワークの中に自分自身を引きずりだす。わたしの中のもう一つのゲシュタルト、由美香。自分自身を求め、道を拓いてゆく強いインパルス。  言葉、知識、感情、すべてを圧倒するノイズ、識閾下の絶え間ない情報の乱流。そこに立ち上がるふたつの定常波。わたしと由美香。  しかし、ふたつの波は、まだとてももろい。絶え間なく変動する底流に、せっかくの波が消されてしまう。  だから、危険な時は寄り添い、互いの波長を重ねて、ひときわ大きな波をつくり、ノイズの奔流を乗り越える。  やりすぎてはいけない。共振と依存は危険な誘惑だ。ともすれば、互いをひとつの波に合成してしまう。  だめだ。そこに生まれるのは、哲学的ゾンビに過ぎない。ニューロウェアに支えられたパペット。パペットの身体を借りたニューロウェア。  だから、由美香とわたしは互いに遠ざかる。そして互いを守りあう。言葉もなしに交わした約束。心配はいらない。わたしも由美香も新しいニューロン結合が拓く、ネットワークの拡がりに魅せられている。止まりはしない。乱流に抗い、互いを創発するのだ。  母はこのとき過ちに気づいていたはずだ。わたしが再構築されると同時に、由美香もまたひとつの人格として構築(レンダリング)されていることに。しかし、もう止めることはできない。  脳に交錯するふたつのネットワーク。マインドマップが爆発的に変容する。煥発するカスケード。ノードがノードを生み、メタ・ノードに呑みこまれる。ポジティブ・フィードバック。千五百グラムの脳の、限られたゲート数、限られた物理的次元のなかに、限りなく無限に近い情報量を織りこもうと、急速に変容し膨張するネットワーク。その加速度、運動量。  すると、負安定なふたつの波に真実の瞬間が訪れる。非線形で決定的な跳躍点。一人の天使も踊れないほど鋭い極小の尖点(カスプ)。  誰にも壊せない、ふたつの波。二度と壊れない、ふたつのソリトン。  わたし。由美香。約束、希望、未来。  今。  不意に、たくさんの光景が、たくさんの音が、たくさんの手触りが、わたしの中にあふれ出す。夜。星。空。陽射し。夜明け。寒さ。涙。声。花。風。そして、たくさんの言葉、言葉、言葉。手触りや色や匂いや声が、顔と結びつき、時と結びつき、場所と結びつき、言葉と結びつき、意味と結びつき、感情と結びつき、はじめてわたしは母を思い出し、自分を思い出す。差し伸べられた手にも、笑顔にも応えられない、あのみじめさを。侮蔑されたときのくやしさを。  死蔵されていた記憶と想いが、ほんの一瞬の間に組み直され、わたしが再構成された。四方にくだけ散った破片が、中央に集まり、組み合わされ、割れたガラスの人形がよみがえる。そんな逆再生の動画のように。  すると圧倒的な重さが、わたしにのしかかる。しかし、なぜだか少しも怖くない。あって当たり前のように、ずっと前からそこにあったように、重く、温かく、わたしを抱きすくめる。  これはなんだろう? 〈それは心。あなたの心〉  その声には、ずっとそばにいたような親密さ、信頼感、安心感があったけど、母の声には似ていないし、今まで聞いた誰の声にも似ていない。  あなたはだれ?  由美香が名を告げる。 〈あたしはあなた。あなたの一部〉  ここはどこ?  まぶたの裏に、太陽が見え、それを公転する地球とひび割れた月が見え、地球の北半球、北極振動で大きく張り出した寒気が英国を覆い、冷え冷えとした波が打ち寄せる岸辺、廃炉になり、廃墟となった核分裂発電所が見え、その廃墟の一部に偽装した英国陸軍の秘密の研究施設、その地下三階、医療デバイスが埋め尽くす病室の中央に、センサとチューブに埋もれたベッド。そこに横たわる娘はやせているけど、もはや病んではいない。頬は紅く、昂然と目を開いている。微笑んでいる。わたしの姿だ。 〈さあ、言葉を〉  なにを?  しかし、言葉は自然に解き放たれる。 「ハロー」わたしは言った。由美香も言った。いっしょに言った。 「ハロー、ワールド」  由美香の、弾けるように陽気な笑い。  ああ、わたしはこの声を知っている。知らないはずはないのだ。  由美香の声は、わたしの声だ。  はじめて聞いた、わたし自身の声。  わたしはこんなに陽気な声が出せるのだ。  しあわせだ、とわたしは思った。  二日後、母は逮捕された。
/237ページ

最初のコメントを投稿しよう!