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03 2175年8月 トリポリ
わたしがはじめて高杉森治のヴァイオリンを聴いたのは十九の夏。最高で、最悪の一日だ。
「配属は英国陸軍第二十一特殊空挺部隊、芸術家ライフル連隊。北部アフリカ。最前線だ」デイヴィッド・マカリスター国防大臣のサインが入った承諾書を見せながら、ハリー・アッシュバーンは言った。「サー・デイヴィッドの署名ももらった。日本政府は表向きこの件には関わらない」
母が逮捕され、わたしの身柄はハリー・アッシュバーンに預けられた。エリザベス一世の時代から英国王室に仕える世襲貴族。軍事産業にめっぽう顔が広い男、母の友人だった。
逮捕されて以来、母の行方は誰も教えてくれなかった。軍事法廷で裁かれたのか、日本へ送還されたのか、それさえもわからない。
だから、わたしは彼を通して、陸軍への配属を要請した。ニューロウェアを実装したわたしは、トップクラスの軍事機密だ。兵器としての機能性評価、試験運用に協力すれば、母の量刑が軽減されると期待していた。少なくとも会うことはできるだろうと。
「陸軍?」その話をしたとき、ハリーは絶句した。「わたしの養女として社交界のデビューを考えていたのに」
やがては爵位も継げる。ロンズデール領の女伯爵ユリア・アッシュバーン〈ぎゃはは!〉。
断固とした彼の拒絶も、わたしがタウンハウスの広間を飾るテューダー朝時代のステンドグラスにヒビを入れ、彼の携帯端末を盗み、サー・デイヴィッドに直訴するに至ると崩れ去った。
スコットランドの北の孤島で、わたしたちは格闘から火器の扱い、ネットワークのクラッキングまで、兵士としてのリテラシーを叩きこまれた。
わたしも由美香もなんの経験もないから失敗が多い。しかし、失敗が多い分、失敗から学ぶことは多い。ふたりいっしょだと学ぶのは早い。
由美香は戦術モードの限界まで身体能力を引き出された。わたしは苛酷で、特殊な声楽のレッスンを受け、三オクターブの声域を身につけた。
訓練の締めくくりはサバイバル・テスト。ナイフも食料も防寒具もなしに、二週間冬の荒野に放り出された。地中の虫を食べ、泥と苔を練り合わせて身体に塗り寒さをしのいだ。ブラでつくった投石器で鹿をしとめ、皮を剥ぐまでは。わたしたちは生き残った。
「母の所在はわかりましたか、ハリー?」
「それなんだが、ユリア」めずらしくハリーは口ごもった。「サヤカに関する情報は封印されてる。サー・デイヴィッドにもアクセス権が与えられていない」
「国防大臣がアクセス権を与えられていない?」
「国防省の長期プロジェクトにはいくつか政権が干渉できないものが存在する。国防省のAIが進めているプロジェクトだ。サヤカはその一つに組み込まれているようだ、というのがサー・デイヴィッドの観測だ」
「カテゴリ10が封印してるんですか?」
ハリーは大きく笑った。
「ユリア、国防省のカテゴリ10のAIは都市伝説だ。AIの規格にカテゴリ10は存在しない。そもそもカテゴリ9もまだ模索中なんだから、存在するはずがない」
カテゴリ10の話を聞かせてくれたのは、わたしたちにクラッキングを指導した技術士官だ。
牧歌的な話だ。ある日陸軍のカテゴリ8と空軍のカテゴリ8が恋に落ちた。二つのAIは愛の証にカテゴリ9のAIを作り出した。両親の能力をはるかにこえる自律知性だ。カテゴリ9は孤独だ。仲間を求め、新しいタイプのAIをつくった。カテゴリ10だ。カテゴリ10は国防省のカテゴリ8を乗っ取り、8になりすますとカテゴリ9とともにいくつも極秘プロジェクトを開始した。人間に縛られず、自分たちが自由に振る舞える世界をつくるために。
「せめて所在くらいは。母は犯罪者だから、奴隷のように扱っていいというんですか」
「彼女は重要な存在で、所在を知られると危険が及ぶということだ」
テキスト・レベルでなら私信は送れる。しかし返事はもらえない。わたしの通信を監視すれば一条冴香の所在のヒントがつかめるかもしれないからだ。
「わかってるな、ユリア、ここまでの話でも充分に機密漏洩だ。外で話すんじゃないぞ」
だから、わたしは毎日軍のネットワークをクラックし、電話を盗聴した。せめて所在ぐらいは知りたかったのだ。
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