04 2183年8月 トライベッカ

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04 2183年8月 トライベッカ

 高度に入り組んだトラブルは天災と区別がつかない。  〇四〇〇時の暗号通貨の入金は、認証回線着信と同時だった。  重いハッシュキャッシュをかかえた暗号通貨は十万ドル。わたしの携帯端末に入金された。この端末の番号を知るものは限られる。  入金と同時に入った通話は、一分間五十ドルの登録者指定のNY自治政府認証回線だ。わたしが証言録取や州外の法廷での証言で使う専用回線で、やはり番号を知るものは限られる。  通話者も送金者も同一人物。  高杉森治。  彼がこの番号を知るはずはない。ネット検索で見つかる番号ではない。 《高度に入り組んだトラブルは天災と区別がつかない。夜明け前には悪い冗談とも区別がつかない》 〈ユリア・リグビーの第一法則〉由美香が言った。〈出ない?〉 「出るわよ」 《放っておくと、トラブルと男はのさばる!》 〈おお、第二法則!〉  当然、高杉森治も認証回線を使っている。チェルシーの住所が表示され、ニューヨーク自治政府の認証もある。 このお高い回線は、生体認証必須、契約者限定、直接通話限定、決してアバターの使用を認めない。そもそも企業間の通話や司法関係者の通話をディープフェイクから守るための回線なのだ。  あわただしく携帯端末をノートブックとペアリングし、生体認証スキャナを接続。わたしの指紋、虹彩パターン、顔面静脈パターンを送り出す。自治政府のサーバが、メトリックスを照合して回線が開くまで二秒。ウェブカメラのタリーライトが閃く。接続。 「ユリア・リグビー」午前四時の通話など慣れっこだ、と言わんばかりの平静な声。ノー・メイク。寝乱れた髪。血走った目。冷蔵庫に睡る三週間前の干からびたレタスのほうが、今のわたしよりみずみずしい。 「ユリア、先日のことをあやまる。たいへん失礼した」  平面スクリーンの高杉が同じように平静な声で応じる。  この時間に、この回線で、平然とあやまりたい?  まっすぐこちらを見つめる目。  喉元を禁欲的にきつく締め上げているのは黒のタートルネックだ。八月に? 「火星行きなら、改めておことわりしますよ」 「証人になってもらいたいことがあるんだ、ユリア」  それが十万ドルの代価?  すべてが致命的におかしい。 〈切って!〉由美香が叫ぶ。〈イヤな感じがする!〉  たしかに由美香の言う通り、一度切って高杉の出方を待つのも手かもしれない。  だが、高杉の意図は知りたい。認証回線の番号も、携帯端末の番号も知っている。周到に準備した上での通話なのだ。 「記録します」録画キーを押した。 〈右手に何か持ってる〉  たしかに右肩が重く下がっている。理由はすぐにわかった。握りしめた拳銃がスクリーンにあらわれた。  回転式六連発、実体弾拳銃。撃鉄はすでに上がっている。  わたしの動悸が急速に高まる。  高杉は両手で銃把を握り、銃口を自分自身の眉間に押し当てた。親指でトリガーを絞りこむ。 「やめて!」 〈見るな!ストレス障害が…〉  わたしは、由美香に逆らい、身を乗り出す。届かないのに手を伸ばす。  撃鉄が落ちる。 〈いまいましい!〉  わたしの視野で白熱光が炸裂した。  その瞬間、由美香に選択肢はふたつあった。  わたしをシャットダウンするか、脳を麻痺させるか。  しかし、じっさいには由美香に選ぶ余地などまったくない。八年前、同意なしにわたしをシャットダウンしないと約束したからだ。  目の前で誰かが自殺すれば、わたしはトラウマを負う。深刻なトラウマは、わたしと脳を共有する由美香にも致命的だ。  だから、ケタミンに似た強力な麻酔薬を合成して、わたしの脳を麻痺させたのだ。  羽毛でできた五万トンのスレッジハンマーがわたしを打ちのめした。  由美香は、機械ではないから、わたしが酔えば、彼女も酔う。互いに麻薬の影響は避けられない。  耳の穴からあふれるほどの多幸感。  白い霧の中を、わたしたちはどこまでも落ちていった。  発射直前「すまない、ミズ・リグビー」と高杉は言ったと、あとでアーレン巡査部長が教えてくれた。  銃声も聞いたはずだが、まったく覚えていない。  眉間を貫いた三八口径弾は右耳の後ろから頭蓋骨を粉砕して抜けたらしいが、わたしには赤い閃きの記憶しかない。  覚えているのは、西の窓に沈む丸い月だ。中央にくっきりとマードック・ペレイラ彗星の衝突痕が見える。 〈一日の始まりはこうでなきゃ!〉  夜明け前にヴァイオリンの神様の自殺を見せられ、トラウマを避けるためヤク漬けになるってどんな一日?  脳はヤク漬け、なかにはラリったふたりのバカ女。 〈高度に入り組んだジョークはトラブルと区別がつかない。ラリったときには、祝福とも区別がつかない。わああおおお!〉  腹だたしいことに、同意するしかない。とてもいい気持ちなのだ。叫びたいほどに。  わああおおおお!  本当に叫んだかもしれない。  はしたないことに。
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