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わたしの大地にて
けんかと秘密の多い家でした。
びくびくしなくて済む「ふつうの家」に住みたかったのですが、
最初は子供だったので、長じては意気地がなかったので、
びくびくしながらずっとけんかと秘密の多い家に住んでいました。
(あなたならわかってくれると思いますが、びくびくしっぱなしで、
緊張して肩が上がっているせいで、ついには鎖骨が逆ハの字に
なっちゃってるようなわたしに、意気地の育ちようがあったでしょうか。)
男ができて、いろいろあって、無茶できるようになって、
やっとけんかと秘密の多い家を出ました。
でも、「ふつうの家」などどこにもない、あるいは、
「ふつうの家」など自分には作れない、と信じていました。
信じるというより、自明の理でした。
母と父が「ふつうの家」を作ろうとして失敗してお互いのせいにして
憎み合い恨み合ってけんかと秘密の多い家を作りましたから。
それをずっと見てそだちましたから。
だから何より、「ふつうの家」に住もうとして、努力して、
失敗するのが、わたしは体の芯から恐ろしかった。
「ふつうの家」にしようなどと思わなければ失敗もしません。
新しい家では、家具も食器も御座なりにしました。
布団にも照明にもお金はかけませんでした。
日々の食事はあじの開きとぶたこまと野菜で作りました。
居心地の悪い場所のまま、暮らそうとしました。
けんかはしませんでした。
秘密は作りましたが秘密は護りました。
安全に安全に。
毎日スナック菓子とコーラを買って、一人で夢中で食べました。
食べれば必ず肩の力が抜けました。
食べる時だけは、わたしは「ふつうの家」に住んでいました。
ほっとひといき、かぞくのだんらん(一人ですが)。
わたしはのんびりと呼吸し(コーラを飲み)、
くつろいで、笑顔でした(スナック菓子をかじりました)。
その時間は一日のうちほんのわずかでした。
体は肥え太り、馬鹿なお金がかかり、健康は損なわれました。
でも、食べれば必ず肩の力が抜けました。
わたし一人の大事な居場所でした。
その上、「ふつうの家」を求めて失敗する心配だけはなかったのです。
ソー、ラブリー。
「ふつうの家」
わたしの居場所
失敗すれば、今度こそわたしは身の破滅です。
作ろうとしなければ絶望することもない、
絶望するのはもういやだったのです。
けんかと秘密の多い家でわたしは絶望を味わいつくしたつもりです。
あなたにわかってもらえたら嬉しいのですが、
こんなにだめなわたしでも、できれば幸せになりたかったんです。
「ふつうの家」を作ろうとしなければ、
いつかは幸せになれると思ってたんです。
何年経っても風が吹きすさぶほど荒れてる(掃除はしてました)家で、
男は「ちゃんとしたごはんとか果物が食べたい」などと言っていましたが、
そのうち他の女と結婚するという理由で、わたしを追い出しました。
ものすごく、当たり前です。
そして、けんかと秘密の多い家は、相変わらずけんかと秘密の
オンパレードでした。
怒鳴り声、離婚騒動、裁判だなんだ、自殺未遂、入院、
いろいろあって、母が病気になりました。
わたしも死にどきだ、自殺しなくちゃ、と思いました。
でも、肥満して、意気地なしで、頭も鈍くなるだけ鈍くなったわたしに、
死にどきだからってぱっと死ぬだけの力があるわけはない。
一人でぎゃあーーぎゃあーーとパニックしているうちに、
病気の母は静かに死にました。
気心の知れない弟と、大嫌いな父と、三人で母をみとりました。
父は母の呼吸を確かめて、Hちゃん!Hちゃん!と母の耳元で二度叫び、
頭蓋骨そのものの小ささに成り果てた母の頭を撫でながら、
亡くなりはったわな
と言い、一瞬だけ泣き顔になりました。
もう一人の、いつも厄介者役の弟が、一晩中死んだ母のそばにいました。
折り合いの悪い兄弟は、そっくりな背中を見せて母の棺をかつぎました。
母とけんかしっぱなしだった父が、肩を落としてその後をついていきました。
けんかと秘密の多い家から、葬列は出ていきました。
わたしにとって、けんかと秘密の多い家は、母と父のいる家でした。
母がいなくなったとたん、けんかも秘密もなりをひそめました。
葬列の最後から振り返って見ると、けんかと秘密の多い家はもうなくなったのだと、
わかりました。
わたしまで、なくなるような感じでした。
(もちろん、わたしはなくならず、葬列の後について、火葬場でお弁当を食べて、
骨を拾って、写真を抱えて帰って、荒れた部屋に戻って、泣いて、働いて、
眠って、遊んで、また働いて、泣いて、遊んで、だったわけですが)
わたしには、なにもありませんでした。
「ふつうの家」を求めなくて済む自分でいたい、とやみくもに費やしたエネルギー。
「ふつうの家」を求めて毎日貪ったジャンクフードの山。
「ふつうの家」を与えてくれと依存して依存して依存して、傷つけてしまった人達。
けんかと秘密の多い家から逃げようと、
意気地なしのわたしがべそかきながらやってきて、
うん、あなたなら知っている通り、見事になんにも残りませんでした。
あなたがいつか言った通り、わたしは今、広い場所にいます。
ひとりぼっちです。
笑っちゃうほどなにもありません。
(昔持っていた、英語の読み書きとか、文章を書く能力とか、飲み込みの良さとか、
素直な性格とか、思いやりとか、そういうものは年をとったら枯れ果てたね)
ひとりぼっちはほんとうにつらいです。
でもいつかここから消え去るまでは、ここにいなくちゃいけません。
そう思うと、わたしの大地はそう悪い場所ではない。
ひとりぼっちがつらいというわたしの言葉が
ゆっくりと染み込んでいくのがわかる、わたしの大地です。
わたしだけの居場所です。
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