「船のゆく」

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「船のゆく」

 川幅五十メートルほどの鈍い銀色に輝く隅田川を見ていると、日に数度、まるで逆流しているかのような動きをする。      ※  島田靖男はいつもの日課である、会社のすぐ裏を流れる隅田川岸壁のテラスをゆっくりと歩いていた。 五月の陽光は、ついひと月前までの柔らかさをまるで失い、肌に噛み付くように照っていた。特に川面からの反射光は激しく、朝のあいだずっと暗い会社内にいた島田の目に射るようにささってきた。  島田はこのテラスで唯一、陽光を避けることができる場所である橋の下へと歩を早めた。可視光の土砂降りにその橋の下だけまるで切り取られたように暗かった。 影の中に入ると外を歩いているときにはまるで感じなかった冷気を含んだ風が島田を包んだ。天然石を荒く削っただけの簡素ないすに腰掛け、いつものように島田は右手の沈んだ町からゆっくりと吸い込むように視線をまわした。指先から流れ出るタバコの煙さえもが景色の一部のように流れていった。 川向こうに目をやると、高速道路が走り、車がひっきりなしに流れている。高速道路のさらに向こうには高いビルが乱雑に建ち並んでおり、殺風景な都会の一部が見える。川沿いに立つ、数本の貧しい松や桜がその殺伐とした景色をさらに貧相なものにしていた。  しかし、今の島田にとっては目の前をトロトロと流れていく川の、その満々と水をたたえて堂々とした姿に心の安らぎを覚えていた。        ※   島田がその船に気づいたのは、左手にある黄色に彩色された橋に目を向けたときであった。  一艘の真っ白い、しかしどことなく薄汚れた船が橋から落ちた影に浮いていた。なんとなく奇妙であった。  隅田川には商業船や観光船が常に行き来する。それらの船にははっきりとした目的がある。船たちは出発地で荷を背負い、まっすぐに目的地へと向かう。止まっている船などない。あるとしてもそれは工事用の船だったりした場合だ。 しかし、島田の見つけたその船は明らかに小型の漁船であった。人影も見えず、ただ浮いているだけの、まるで難破船のような印象を島田に起こさせた。  船が波に合わせて静かに上下に揺れている。    ちょうど会社へ戻る時間でもあり、昼飯をそこで終えた島田はゆっくりとその船に向かって歩いていった。  船に近づくにつれ、細部が見えてきた。その船の船腹には「翔洋丸」と黒く、あざやかに染め抜かれた文字が読めた。  おどろいたことに、エンジン音もしないその船は岸に繋がれているわけでもなく、錨を下した状態でもなかった。それでも流されずにそこに浮かんでいるのは、おそらくちょうど潮の止まる時間ででもあったのだろう。  島田の歩みに従って、船室が徐々に見えてきた。操縦桿、小さな棚、窓辺に置かれた小さなコップやその中にある歯ブラシ。船の思わぬ生活の香に島田は歩みを止め、岸壁を分かつ柵に手を突いて、船室内を覗き込んだ。  ― どきり ―  島田の心臓がはねた。  薄暗い畳三畳程の船室に、真っ白なワンピースを着た女性が倒れていた。  顔は向こうを向いているため分からない。  しかし、その服のデザインから若い女性であることが分かる。  ワンピースの白に劣らず、その手足は白かった。    高速道路を走る緊急車両のサイレンが遠くに聞こえていた。  その物憂い音が、島田の眼前の景色を非現実的なものにしていた。  そしてそれが、島田を大胆にした。  警察に知らせるのが先か?  いや、生死を確認することが先だ。  死?  死んでいたらどうする?  様々な思いが島田の胸をひと時に去来したが、体が先に動いていた。島田は柵を乗り越え、船に飛び移った。  船上の島田にもう岸壁を振り返る勇気はなかった。手早く船室のドアに忍び寄り、中に入り込んだ。そして、入り込んだ島田に叩きつけてきたのは異臭であった。湿った雑巾の香であった。一月留守にした家の冷蔵庫の臭いであった。  そして、  その臭いの中心は、そのワンピースの女性であった。  外からは見えなかったが、頭部に癖のない髪が黒く流れていた。  裸足だった。ワンピースよりも白い脛が見えた。  長い黒髪の向こうに、その女性の顔があったが、島田にはその顔を確認する勇気はなかった。  女の側には小さな机が、そしてその横にはハンドバッグ、机の上には掌ほどの黒い手帳が乗っていた。  その暗い船室から出、岸壁に戻った島田は警察に電話をかけた。そして彼は警察の到着を待った。指が震えるためどうしてもつかないタバコにイライラしながら、スーツの内ポケットに入った女性の手帳を思った。  警察では簡単な事情聴取があり、三時間ほどで解放された。無断で船室に入り込んだことを叱られはしたが、女の死体が死後数日経っていること、そして島田が昼休み中であったことの裏が取れたことを確認した警察はあっさり彼を解放した。  署の外を出ると、もう夕方が近い時間だというのに陽光がまだ強かった。署を振り返って見た島田の目に、署の入り口はぽっかりと間違って空いてしまった洞窟の入り口のように見えた。  島田のアパートは都内から割りに近い郊外にあった。  一人暮らしの気ままさも手伝って乱雑な部屋のドアを開けたときには、あれほど溢れかえっていた外の陽光はすっかり消え果て、美しい闇空に月が金色の切れ目をつけ輝いていた。  自分の部屋に戻ったとたん、長かった日中の疲れが沸々と噴出してきた。台所にある椅子に体を投げ出すように座り込んだ島田は目を閉じた。頭の奥に鋭い針が何本も刺さったようにジンとした。  冷蔵庫のビールでも取りに行こうと体を伸ばすと、椅子に掛けたスーツの上着に手が触れた。胸ポケットの奥の固い感触。―黒い手帳。  島田の眼前にあの真っ白なワンピースと、生地よりも白い肌の女が浮かび上がった。  「ふぅー」  自らに勢いをつけるように島田は手を伸ばし、その手帳を取り出すとページをめくり始めた・・・     ※ 5月7日     この私の行動は自殺といえなくもない。いや、自殺という積極性があれば私は木に釣り下がっていただろう。  今、振り返ってみても私の人生は薄く紅ついた桜の花のようなものだった。私の存在は真っ赤なバラの園に例外に根付いた病弱な桜であり、小さな蕾をつけることが出来ても、そこから咲いたのは色素とも呼べないような紅を背負った桜だった。  私はこの日記に今の私の全てを写そうと思う。  外は夜、降雨。  もう陸は見えない。 5月8日  昼、じっと水面ばかりを見ていたら気分が悪くなり、しばらく横になっていた。考えてみるとこれまで船に乗ったことはなかったと思う。目を閉じても水面は活き活きと目の前にあった。波と波、その境目の真っ白な泡。作られては消え、消えるそばから作られ、また消えていく・・・ 真っ暗な船室で私は吐きながら泡を見ていた。 5月9日  真っ青な空とゆがんだ水平線。  今日は鳥が一匹、縁にとどまっていた。  あれはなんと言う名の鳥だったのだろう?  灰色に全身が汚れて、まったく疲れ果てたようにちっとも動かなかった。  今日は一つ思い出したことがあった。今日、空に浮かんでいた、巨大な綿菓子のような雲とそっくりな色をした病院。私はひと月、そこに通っていた。  私はそこで、「病気」という名前の箱にひと月詰め込まれていた。  退院の日、夫だという男が迎えに来ていた。その男の顔がはっきりしないが、皴の多いスーツをその時男が身に着けていたのを覚えている。  彼はしつこく私に自分のことを「夫」だと言っていた。彼が泣きながらあまりに何度も言うので私は噴き出した。 5月10日  私の体はだんだん重くなってきている。コップを取りに行くのも面倒なので、今はこの机の上に置いたままだ。私の物は全て机の周りに置いて、なるべく動かなくても済むようにしている。 5月11日  夢を見た。  真っ暗なシャボン玉が青空にいくつも浮いていた。  シャボン玉の一つ一つに私がいた。  一つのシャボン玉の中で、幼い私が母に何度も殴られていた。泣き出さない私が彼女は怖かったのだと思う。  一つのシャボン玉の中では、私は小学校の教室の中で一人で座っていた。他の生徒のはしゃぎ声が遠くでしていた。  一つのシャボン玉の中で、寝ている私のすぐ側で母と見知らぬ男が抱き合っていた。  一つのシャボン玉の中で、私は中学校のトイレで用を足していた。でも、そこは実はトイレではなく教室の中であって、私はトイレの夢を見ているのではないかと思うと、恐ろしくなって自分の腕を何度も叩いた。    シャボン玉。私は夫と寝ていた。私も彼も裸。夫が寝入る前に「また機械とやったような気がする」と言っていたことを思い出しながら天井を見ていた。  シャボン玉。米国で私はあまり英語で困らなかった。高校を中退して父の仕事先の相手と父の通訳をした日。父の仕事先の相手の真っ青な瞳、その奥に襞に包まれた黒い水晶体に見入ってしまい、父に怒られていた。  シャボン玉。白い病室で私は怒り狂っていた。目の前の医者は一体自分のことを神だとでも思っているのだろうか?怒りで病室中が白く焼けて見えた。  『先生の言うゴルトシュタインやフロイトやドナルドなんていい加減な学者達の言うことを鵜呑みにしないでください! 彼らの心臓は私には嵌らないんです! 彼らは怖がっているんです。私という個人に自閉症だとかサヴァン症候群なんて首輪をはめないと安心できないんです。あの人たちは結局、自分達の理解できない他人の全ての行為に特製のスバイスを振りかけるしか能がないんです!』そう叫んでいる同じ自分が、床のタイルの数をつまらない気持ちで数えていた。  シャボン玉。何年も使っていた鏡を捨てた日。泣けてしょうがなかった。 5月13日  この航海はいったい何日目になるのだろう? こうやって日付を書いているのにわからない。  今日はどうしても体が動かないのでずっと床に居る。じっとしていると、海の鼓動が聴こえる。外は嵐なのだろうか? これまでよりずっと体が揺らされる。  鉛筆があまりに重くて、文字が震えてしまってよく書けない。 5月14日  すばらしい朝陽。  雲がかかっていて陽は見えないが、厚い雲を通しても私に陽は届いてくる。陽は私の中の澱んだ暗いものを融解して蒸発させていく。  昨日は一日中船室で考えていた。考えることが何もないという自分を考えていた。外は雷がひっきりなしに鳴っていたのに不思議と波は穏やかだった。  あぁ、こうやって外に出て書いていると私の中に暖かい陽がどんどん蓄積される。私は今、陽を懐胎している。  私の中の陽が私に、母を想わせた。夫を想わせた。  すべてのつじつまがまるでジグソーパズルのようにぴたりと合う。母の混乱、夫の涙。すべてのピースの合わさったこの存在はなんて気高く、美しいのだろう?  この左手に触れる骨ばった顔、体。あぁ、これまで味わったどんな心地よさ・・・暗い押入れの中、しめった洞窟、巨大なごみ袋の中に身を包んだ記憶、にも優る。喜びと安らぎがこの凪いだ海原の向こうから次々と押し寄せてくる。 5月18日  目覚めて私はまだ生きていることに驚いた。  この前の素晴らしい多幸感は今は静かに私の体の隅々を満たす。  しかし、  私はもう鉛筆を持つ力がなくなっている。  私はもう考えることができなくなっている。  私はもう見ることができなくなっている。  ああ、はっきりと分かっていることが一つある。  今度目をつむった時が最後なのだろう。  あんなに聞こえていた風の音が今は全然聞こえない。  この枕元の灯りも薄くなってきた。  また夜が来たのだろうか。  外には夜空が透明に広がっていて、星が無数に輝いていて・・・    もういいかな。  目を閉じよう  さようなら                                「船のゆく」 了
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