2 扉の中

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2 扉の中

 その日は、昨日の雷雨などまるでなかったかのような晴天だった。当時まだ未就学児だったパトリシアは、両親も手を焼くエネルギー旺盛な子供で、その熱量は、家の中で出来ることより外の世界に向いていた。  昨日の雷雨の時も、恐怖より好奇心が勝り、雷が轟くたびに、家の中に居ながら音のする方に耳を傾け、外の様子に興味津々だった。やがて雷雨も過ぎ去ると、衝動に任せて家の外に出ようとしたが、まだ道がぬかるんでいるから危ないと引き留められ、昨日は一日中家の中でお預けを食っていた。それも明けてのことだったので、その日、パトリシアは起きて朝食を済ませ、日課である母親からの家庭教育を終えると、飛び出す勢いで外に出た。    さわやかな風が、頬を撫でて去っていく。パトリシアはその匂いに、夏の訪れを感じた。    彼女が玄関先に立っていると、家の中から、彼女の母親とラブラドールレトリバーが出てきた。ラブラドールレトリバーはすぐにパトリシアに駆け寄り、彼女の手を舐める。 「サム!くすぐったいよ!」  その光景に、彼女の母親は微笑みながら、サムと呼ばれるラブラドールレトリバーにつないだリードをパトリシアにしっかりと握らせ、外に出るときの約束事を斉唱した。 「いち、サムから離れないこと。に、知らない場所にはいかないこと。さん、何かあったら大きな声を出すこと。よん、時間通りに帰ってくること」  母親は最後に、分かった?と確認を促す。パトリシアは元気に返事をすると、サムとともに、念願の散策に繰り出していった。    散策できる嬉しさに、パトリシアは胸が躍った。昨日の雷雨のせいか、いつも歩く道が一新されたように感じる。  まだほんの少し、柔らかさの残る地面。道脇に生い茂る植物の風に揺れる音。立ち込める匂い。サムとともに歩きながら、パトリシアは全身でその真新しさを感じていた。もっとも、彼女にとってその感覚は初めてではない。その日は、前日の雷雨の影響があるにせよ、パトリシアは散策のたびにいつも、新鮮さを感じていた。歩き慣れた道であっても、道の状態、風の吹くタイミング、草花のそよぐ様子、遠くで鳴く鳥の音などの軽微な変化、さらには季節の移ろいや天気の状態、彼女の気分など、様々な要因がパトリシアに、世界が日ごとに生まれ変わったかのような印象を与えた。変わらないようで、同じものは一つとしてない、そんな不思議を与えてくれる、慣れと新鮮さが入り混じった散歩の時間が、パトリシアは大のお気に入りだった。  家から出て東へほどなく歩くと、突き当りに小川が現れる。その手前で右手側に曲がり、ほとりの道を南の方へ進むと三叉路に行き着く。当時、パトリシアの両親は農業を営んでおり、住居を中心に辺り一帯の土地を所有していた。そのため、パトリシアが歩いてきた道も私有地の範囲内であって、幼い彼女はその範囲の中においてのみ、常にサムと一緒という条件(パトリシアにはむしろ喜ばしいこと)付きだが、自由に行動することを許されていた。従って、パトリシアはその三叉路を右に曲がり進んで行くのが、散策時における約束事に則ることになる。  だがその日、パトリシアはその三叉路に差し掛かった時、その歩を止め、いつも向かう道とは異なる方角に目を向けていた。パトリシアが立ち止まったことに疑問を感じたのか、サムがパトリシアにすり寄る。だがパトリシアはそれを意にも介さない様子で、ただ、三叉路の角に立ち、南の方を向いていた。  屹立したまま、パトリシアはあることを思い浮かべていた。それは、来週の母親の誕生日のことだった。先月誕生日を迎えたパトリシアは、お祝いにプレゼントをもらった。どうして生まれた日の祝福にプレゼントがもらえるのか分からなかったが、とにかくその時、誕生日には贈り物をするものだと、彼女は認識した。そのことを覚えていたため、来週の母親の誕生日を思った時、ある考えがパトリシアの脳裡をよぎった。  そうだ、私もママに何かあげよう。    パトリシアが佇む三叉路を直線方向に1.5㎞ほど進んだところに、小さなスーパーマーケットがある。普段、パトリシアの両親は郊外にある大型ショッピングモールで買い物をしているが、ちょっとした買い物の際には、そのスーパーマーケットを利用していた。いつもはそこへ足を運ぶのに車に乗っていくが、一度だけ、パトリシアはそのスーパーマーケットに歩いて行ったことがある。もちろん母親に随伴してのことだったが、その時の経験も相まって、パトリシアの気持ちはそのスーパーマーケットへ行くことに大きく傾いていた。    パトリシアの立っているところからはスーパーマーケットは見えない。それでも、頭の中で様々なイメージを展開させながら、彼女は思考を巡らせた。  このまままっすぐ行けば、パトリシアが自由に行動できる範囲の外に出てしまうため、きっと両親からは咎められるだろう。しかも、いつもの散策コースから外れるため、帰る時間も遅くなるかもしれない。しかし、行ったことのない場所ではないし、前に歩いて行った時もサムが一緒だったから、サムも助けてくれるだろう。それに、帰る時間が遅くなったとしても、贈り物を買っていたという事情を話せば赦してくれるかもしれない。  そんな風に、彼女の脳内に一度閃いたアイディアは、様々な感情や理由を取り込みながら、願望となって広がっていき、もはや歯止めの利かないものになっていた。さらに、この時彼女のポケットには、先程の家庭教育で使った本物のお金が入っており、このことは全くの想定外だったのだが、買い物をできる可能性が自分にあると気付き、また、習ったことを試してみたいという感情が芽生えた時には、彼女の中にかろうじて残っていた躊躇は完全に消え去ってしまった。    よし、行こう。  かくして、彼女は初めてのおつかいに踏み出していった。
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