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最初、サムはパトリシアがいつもと違う道を行きはじめたことに困惑し、パトリシアの足元に体を近づけ、いつもの道へ戻るように促す素振りを見せた。だがパトリシアの、意志の強さが表れているかのような歩の強さに圧倒されてしまい、泣く泣くパトリシアの行動に従う羽目になってしまった。パトリシアが外に出るときは、きちんと定められたルートを行くよう彼女の両親にしつけられたサムだったが、この場における直系の主人はパトリシアだけであるため、この時のサムに、パトリシアの行動を制するだけの気概はなかった。パトリシアが数歩進んだ頃には、サムも説得を諦めて、パトリシアと歩く時の定位置に戻り、彼女と歩を合わせて三叉路を直進していった。
三叉路を南に進んで行くと、やがて公道に出る。普段パトリシアが散策しているコースは、畑の近くということもあって、舗装されていない道がほとんどである。そのため、歩きながら足の裏に感じる大地の感触が、不規則な様子から平坦なものに変化したことを感じた時、パトリシアはこれから自分がしようとしていることの実感がこみ上げてき、胸を高鳴らせた。その頃の幼い彼女には、事情の知るところではなかったが、その地域はパトリシアの両親同様、農業を営む家庭が多く、辺りは農地が広がっているため、公道であっても車が通ることは滅多になかった。そんなわけで、パトリシアはサムとともに堂々と道の真ん中を進んでいった。
パトリシアは、以前歩いたスーパーマーケットまでの行程の記憶を、脳内にトレースしながら歩いた。前に母親と歩いた時は春先だったため、頭に描かれる記憶と、現状歩きながら肌で感じる感覚に、若干の差異を感じながらも、パトリシアは着実にスーパーマーケットに向かって歩を進めていた。
季節は夏。時折、地表を嘗めるような風が、束の間の涼しさを運ぶが、時間の経過に伴って領空権を広げる太陽の熱が容赦なく頭上に降り注ぎ、パトリシアは汗をかき始めた。照り付ける太陽の熱が、地面のコンクリートに反射して余計に暑い。隣を歩くサムも、心なしか息が上がってきているように感じる。だが依然としてパトリシアは、母への贈り物を買うという計画に心躍らせ、その心模様がそのままエネルギーとなって発露しているかのような足取りだった。この時の彼女は、自分の計画がうまくいくことを信じて、微塵も疑わなかった。
だが、いつもの散策コースから飛び出して、二十分ほど時間が経った頃だろうか。気温の上昇が止まることをしらず、もはや吹く風も熱気を含み、じりじりと彼女の体力を削るからか、実際の天気とは裏腹に、パトリシアの思い描いていた算段の雲行きが怪しくなってきた。それはまるで、いつのまにか空にぽっかりと浮かぶ雲のように、どこからか音もたてずに彼女の中に現れ、広がっていった。
パトリシアは記憶をなぞりながら、スーパーマーケットまでの道のりの間で、自分が今どのあたりにいるのかを想像した。
あと、どれぐらいで着くだろうか。そうだ、着いたところで、ママに何を買ってあげよう。お金は足りるだろうか。そんなことを考えながら、彼女は黙々と歩く。様々浮かび上がってくる思考の中で、彼女は家のことにも思いを巡らせる。いつもなら、この時間はもう家に帰っているだろうか。いや、いつも散策しながら、家の前の畑で土いじりをしたり、パパが作った木にぶら下げられたブランコに乗って遊んだりするから、家に帰るのはもう少し遅いはず。だから、パパもママもまだ心配してないはず―
そんな思いが、彼女の頭をよぎった時、彼女は喉が渇いていることに気が付いた。普段であれば家の近辺が活動範囲なので、喉が渇けばすぐに家に戻り、水分補給をすることができる。しかし今はそれが叶わない状況だった。いったん喉の渇きに気付くと、それがじわじわと体全体に侵食していくようで、意気揚々としていた足取りに翳りが見え始める。やがてその渇きは心にも作用し、弾んでいた気持ちも風船から空気が抜けていくようにしぼんでいった。
あと、どれぐらいで着くだろうか―
それまでに、なんとか喉を潤せないだろうか。そう思った時、パトリシアは水の流れる音を聞いた。
はたと立ち止まって、その音に耳を澄ませる。微かだが、絶え間なく流れる水の音がする。近くに小川が流れているのかもしれないとパトリシアは思い、周りを見渡した。道路際に生える草で分からなかったが、どうやら脇にそれる道があるらしく、その道を入っていくと、流れる音をたどって、水源にたどり着けるかもしれないと、パトリシアは考えた。しかしそうすれば、寄り道することになり、家に帰る時間はさらに遅くなるだろう。それに、この道の先に、果たして水があるかどうかは分からない。また、以前母親と進んだ道から外れ、知らない道を行くことになる。もし迷子にでもなれば一大事である。そんな懸念が彼女をためらわせたが、喉の渇きはその間にも強くなっている。隣にいるサムも、さっきより呼吸が荒い。しきりに舌で口の周りを舐めているようで、その様子からサムも喉が渇いていることが窺えた。
もはや、迷っている余裕はなかった。そして、とうとう彼女は水分への渇望に抗えなくなり、その道に入っていくことを決めた。
そう決断するや否や、もはや意識するより前に、足が水の流れる音のする方へ踏み出していた。
「サム、ごめんね。またちがう道に行くけど、のどが渇いたから、水のあるところに行こうね」
そう言いながら、パトリシアは草を踏み分け進んでいく。未知の道を行くということもあるが、その足はおぼつかなかった。だがこの時のパトリシアは、直感にも似た、説明のつかない確信めいたものを感じていた。喉の渇きに困憊していたが、そのことがかえって、彼女の水源を嗅ぎ分ける感覚を高めたのかもしれない。この先に、きっと水がある。研ぎ澄まされた嗅覚が、彼女を動かしていた。
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