2 扉の中

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 道は下り坂になっていた。ここまで歩いてきた道が実は坂になっていて、そちらが高くなっているのか、これから行こうとしている土地が低いところにあるのか分からなかったが、パトリシアは滑らないように慎重に歩いていった。  また、公道から外れたためか、道は舗装されておらず、所々パトリシアの拳の大きさほどの石も転がっており、この時の彼女はサンダルを履いていたので、石を蹴って足を怪我しないように気を付けた。そんな悪路だったが、幸いなことに、近くに葉を蓄えた木々が生えており、その枝葉のおかげで直射日光が遮られ、それが幾分かパトリシアの気を紛らわせた。  坂を下るごとに鬱蒼とした様子は増していき、昨日の雷雨で濡れた草木がまだ乾いていないのか、辺りはうっすらと湿っぽい。さっきまで歩いていた道とはまるで真逆の様相に、パトリシアは自分が別世界に迷い込んでしまったような気になった。公道を歩いていた時は、日光にさらされ、そのストレスであらゆる感覚が鈍っていた。だが水分にありつけるかもしれないという希望を見出した時から、それを達成するために彼女の感覚は鋭敏になり、高い集中状態になっていた。  彼女の耳は、水の流れる音を捉えて離さない。またこの頃から優れていた嗅覚が、この先に水があるという確かな予感を彼女に感じさせ、それが彼女の歩みを支えた。    だが歩を進めていくうちに、ある時を境に、その研ぎ澄まされた感覚が、パトリシアの中にある予想を芽生えさせた。水の流れる音は途絶えない。さらには、確実にその音の出所に近づいている実感がある。しかし先程からその音が、パトリシアの想像に反して、大きくなってきたのである。つまりその音が、小川の流れるときのそれではなく、もっと大きな川が流れている時の様相を呈していたのであった。  もしかしたら、思ったよりも、大きい川かもしれない―  そしてその予想は、的中することとなる。  パトリシアがたどり着いた先にあったのは、小川というには差し支える、悠々と流れる川だった。  川の姿を確認した時、パトリシアは反射的に川に向かって手を伸ばし、そして足を踏み出そうとした。その瞬間、サムが咄嗟に吠え、パトリシアを牽制した。どうやら川までの距離は思ったよりもあるらしく、またパトリシアが踏み出そうとしたすぐ先が、少し窪んだ地形になっているようで、サムが注意をしてくれなかったら、そのまま崩れ落ちていたかもしれない。  パトリシアとサムは、今立っているところから、それ以上前には進めなかった。また、どうにか川に近づいたとしても、のどを潤すことは困難に思えて、もはや彼女たちに為す術はなかった。おそらく、目の前に流れる川から分岐して、それこそ小川のように細く流れ、喉を潤すに容易い場所があるかもしれない。それこそ、パトリシアが最初に聞いた水の流れる音は、まだ見つけきれていない細流による可能性もある。しかし、目前に横たわる川の音は辺り一帯に響いており、その音を気にせずして、まだ見ぬ細流を探すことは難しく感じられ、その困難を押してまで、新たに水源を探す気力はパトリシアにはなかった。  ここにきて手詰まりになった彼女は、しばらくその場に釘付けになった後、ひとまず、もといた道に戻ろうと考えた。そして彼女は身体の向きを反転させ、辿ってきた道を逆戻りしはじめた。サムもそれに続き、すぐに彼女と歩く時の定位置に戻る。だがその足つきは、落ち込むパトリシアと同様、力ないものだった。  ここに至るまで下り坂だったため、当然帰りは上り坂である。そのことがさらに、パトリシアの心身を疲弊させる。辺りに生い茂る草木の暗澹とした様子に吸い込まれていくように、彼女は鬱屈していった。公道を歩いていた時は炎天下に溶けていくように、逆に今は、木立の悄然とした空気に散っていくように、三叉路を直進していった時の揚々とした気持ちは萎え、母親に贈り物を買って帰るという計画への活力はすでに無くなりかけていた。  草や地面に落ちた葉を踏みしめる音が空しい。発端は判然としないが、計画の雲行きが怪しくなってきたころに、パトリシアの心にぽっかりと浮かんだ雲は、今や覆いつくすほどの大きさになり、彼女の心はすっかり曇り模様になってしまった。  一歩、また一歩と、弱々しく歩く中で、パトリシアはもう家に帰ろうと思った。  ぽろぽろと涙が零れ落ちる。涙も水のはずなのに、足の甲に落ちる涙の粒は熱を帯びていた。声をあげて泣きたかったが、喉の渇きが悪化しそうで、なんとか押し殺す。みじめな自分が悲しくなり、パトリシアは嗚咽した。  歩く少し先の視界がわずかに開けて、パトリシアは公道からそれる道に入って最初に降りた坂を確認できるところまで来た。この辺りから坂の勾配はより急になり、すでに疲労しきった彼女の足腰に容赦なく負担をかける。もはや自分で歩くというより、半分サムに引っ張ってもらっているような足取りだったが、パトリシアは何とか、力を振り絞って前に進む。  しかし、疲労は脳にまで及び、先程まで冴えていた感覚は途絶え、注意力は散漫になる。その状態でパトリシアは、あともう少しで公道に戻れるということに気が緩んだのか、うっかり地面に転がる石の上に足を踏み出してしまった。 「ひゃぁ!!!!」  喉をかすめた声は、出たというより、抜けていった感じだった。  パトリシアは横に転倒するように体勢を崩した。咄嗟に手をつこうとしたが、その手は、あると思っていた地面に接することなく、拠り所を失ったまま沈んでいった。彼女が歩いていた道の側面は坂というには急すぎる、切り立つほどの傾斜になっており、足を滑らせた彼女はそこに滑落していった。  落ちていく瞬間、パトリシアはサムの方に目を向けていた。サムも彼女の方を向いており、「ワン!」と吠えている。その瞬間だけスローモーションになって、まるでその光景が、火花を散らしながら脳に焼きつけられていく感じがした。確かに下に向かって落ちているのに、体は浮遊するようで、瞬間的に力が抜けてしまい、そのせいでサムから手が離れてしまって、パトリシアは一人で落ちていった。  遠くなる景色と、代わりに近づいてくるもの。今まで立っていたところから後方に蹴りだされる感覚。耳の後ろから広がっていく闇。空気が荒ぶる音がしているのは、自分の叫び声か、鼓膜が震えているのか。  振り返れば一瞬だったのだろう。しかしその一瞬は終わりがないように思えた。その重なりこそが永遠と呼ばれるものなのか。だが確かに、空を仰ぎながらパトリシアはまだ自分の中に、時が刻まれているのを聞いた。
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