1 扉の前

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1 扉の前

 パトリシアは、とある病院に来ていた。診察室の前にある待合所で、夫のジョンとともにベンチに腰掛け、自分の番を待っている。  二人がいるところは、散見される人数の割には、静かだった。だがそれは心地の良い静けさではなく、そこにいる全員の緊張感が伝播し、張りつめたような鋭さを持った空気だった。  パトリシアは、周りを見渡すように、右から左へと頭の向きを変えながら、鼻で息を吸った。吸い込まれた息が肺に送られるのと同時に、鼻腔内のセンサーが、空気中のにおい分子に反応して、パトリシアの脳に信号を送る。瞬間的に、鍵が鍵穴に合致し開かれていくように、彼女の脳内に情報が展開されていく。  パトリシアは幼い頃から嗅覚に優れていた。しかしそれは、単ににおいの判別能力が高いということだけでなく、彼女の場合、物事の気配や予感といったものを嗅ぎ分ける感覚のことを指す。そのことから、彼女にとって、嗅覚から得られる情報は、思考や判断の重要な手がかりだった。  病院内の、清浄された空気。清潔感が醸し出された空間だからこそ、人から発せられる独特の感じ―オーラとか、雰囲気などと表されるような―が、より際立つようで、パトリシアは、そのにおいともいえない“何か”に意識を向けていた。  というのも、パトリシアは先程から、自分がいる場所から確認できる人の数以上の、気配のようなものを感知し、息苦しさを覚えていたからだ。さらに、その感覚は彼女にとって初めてではなかった。それは、彼女が物心つく頃から、病院に来るたび感じていたことだった。  この息苦しさは、何なのだろうか?  パトリシアは、自身が感じている息苦しさについて考えてみた。  病院という場所は、生と死の現場であるがゆえに、普段は無関心というベールに覆われた人生のレールが浮き彫りになり、否応なしに現在地を知らされる。曖昧にしていたことを明瞭にされた時、露わになる感情は何の装飾もない剥き出しのもので、それらが病院内の空気に共鳴し、色濃く残留することから、確認できる人の数以上の気配のようなものを感じてしまい、息苦しさを覚える―。  考えすぎだ、とパトリシアは思った。第一、すべての病院が生死を目撃するような場所ではないし、それに、感情が空気中に残留して、何らかの気配のようなものを感じさせるというのは、いささかこじつけが過ぎる。  ただ、考えたことで、パトリシアは自分がいまどのような心理状態にあるのかに気付いた。  人は、判別がつかないことを前にすると不安になり、極端な思考に陥りがちだ。分かりやすく言葉にして、事態を把握しようとしているのかもしれないが、言葉に収めようとすること自体、極端になっていることの表れである。  つまり、いま彼女はその程度に余裕がなく、不安を感じているのであった。  隣にいたジョンは、その様子を感じ取ったのか、触れていたパトリシアの手をそっと握った。 「パティ、大丈夫かい?」   握られた手のぬくもりに、パトリシアは肩に張った力がほぐれるのを感じた。彼女はその手のぬくもりを知っていた。そのあたたかさを感じる時、蘇る様々な記憶がジョンを思い起こさせて、自分は一人でないと思い出すことができる。人の救いがどこから来るのか分からないが、少なくとも自分の救いはジョンにある、と彼女は信じていた。 「えぇ、大丈夫、ありがとう」  包まれた手を翻して、ジョンの手を握り返す。頭を切り替えよう、とパトリシアは思った。 「お店、休みにしちゃってごめんなさい」 「いいんだ、きみのことの方が大事さ。お店のことは心配しなくていい」  お店、というのは、パトリシアとジョンが営んでいる移動販売店のことである。今二人がいるシカゴの病院から、車で三時間ほど走ったところに、歴史的な趣を感じさせる町、ガリーナがある。二人はそこで、町を巡回するトロリーバスを模した移動販売車で、日ごとに町の中を移動しながら、ファストフードを販売していた。看板商品は、州の収穫量が国内で二番目を誇るトウモロコシを原料に、生地を作ったコーンドッグと、そのトウモロコシをふんだんに使ったアイスクリーム。角の部分がトウモロコシになった、ユニコーンをモチーフにした店のイメージキャラクターも好評を得て、ガリーナでは知れ渡った観光ポイントになっていた。しかし、連日観光客や、休日に足を運ぶ人で賑わうガリーナで、訪れる人々を招き入れようと、様々な商店が独自の展開をしている中、パトリシアとジョンの店がひときわ目立ったのは、販売している商品やイメージキャラクターだけが要因ではない。それは販売している人間の方、とりわけ、パトリシアの“ある性質”が、注目を浴びる原因となっていた。そして、注目を浴びるきっかけが自分にあることを、パトリシア自身も理解していた。  そして今回、パトリシアが病院に来た理由も、彼女が持つ“ある性質”に関係がある。  当然ながら、彼女の最大の関心は、今回の診察を経て自分自身がどのように変化するのかということだったが、彼女に変化が訪れた場合、彼女を取り巻く諸事情も変化することは容易に想像できた。そしてその変化するであろう諸事情のことを考えた時、パトリシアの心配の筆頭に挙がるのはお店のことだった。  この先一体、どうなるのか―  パトリシアがそんな不安を感じていると、ふと、ジョンが口を開いた。 「ただ惜しむらくは…」  普段にはない、かしこまった声色だった。ジョンは続ける。 「観光客が、僕らの店の味を知らずに帰ってしまうことかな」  パトリシアはジョンの方を向く。そしてしばらく、ジョンを見つめた後に言う。 「その神妙顔やめて」  数秒間、二人は顔を見合わせる。そしてとうとう堪えきれなくなって、二人は笑い出した。  ジョンの漏らす笑い声を聞きながら、おそらく、ジョンは自分を和ませるためにおかしなことを言ったのだろうとパトリシアは思い、そのことに感謝した。再び不安や心配の気持ちに陥りそうになっていたが、またもジョンに救われた。握る手にジョンのぬくもりを感じながら、文字通り、自分はジョンに繋ぎ止められていると彼女は思った。  その頃には、パトリシアの中にあった息苦しさや、わだかまりなどは解消されていた。そして、落ち着きを取り戻した思考で、これからのことを考えようと彼女は思った。だが不思議なことに、これからという未来に目を向けているはずなのに、頭の中では過去の記憶が再生されようとしていることに彼女は気が付いた。それは、未知の未来を前に、過去の出来事とリンクする箇所を思い起こすことで、これから目の当たりにすることへのショックを和らげる、一種の防衛反応かもしれないと彼女は思った。  二人の前を多くの人が往来する。人の声、機械音、様々な音が空気にざわめく。やがてそれらは混然一体となり、無遠慮に脳に響き渡る。それらをシャットアウトするように、パトリシアは、彼女が過去に遭遇した、ある出来事に思いを馳せた。  それは、ある夏の日に起きた出来事。  一人の少年との出会い。  パトリシアの意識は、脳内に映し出される光景に溶け込んでいった。
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