硝子の音色

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 ――ちりん  ――ちりん  今日も硝子の音色を奏でながら僕は彼女の家に向かう。これは僕の日課だ。  玄関からは入らず庭先へとお邪魔する。 「こんにちは、千代子さん」 「こんにちは、武雄さん。随分と遠くから風鈴の音が聞こえていましたよ」  彼女はいつだって優しい笑顔で僕を出迎えてくれる。 「え! そんなに遠くから聞こえてましたか!? お恥ずかしい……今日は風が強いのでよく鳴ります」 「武雄さんが来てくれたのがわかるから、いっぱい鳴らしてくださいな」 「では遠慮なく。猫の鈴のように鳴らしてやって来ます」 「ふふふ、大きな猫ちゃんだこと。どうぞ座ってください」 「お邪魔します」  千代子さんに促され庭先の縁側に腰を下ろした。  そよそよと風が吹き、またちりんちりんと音が鳴る。 「夏の匂いがしてきましたね」 「夏の匂い……ですか?」 「土の水分が蒸発したような匂いです」 「ああ――確かに。夏の匂いですね」  僕と話す千代子さんは目を瞑っている。  見えないものは言葉で紡ぐ。  彼女の両目は流行り病の眼病されている――  視力は日を追うごとに弱くなり今はほとんど見えていない。  僕と出会った時には既に見えていない状態だったらしく、彼女は僕の顔を知らない。  僕が千代子さんと出会ったのは今年の春のことだった。  杖を使い歩いていた彼女は土から飛び出していた桜の根っこで転んでしまい足を挫いて座り込んでいた。それを助けたのが僕という訳だ。  桜の木の下で座り込む千代子さんの美しさに僕は思わず息を呑んだ。  雪のように白い肌。  頭上に咲く桜のような薄紅色の唇。  僕は一瞬で恋に落ちてしまった。  人が恋に落ちる音は硝子の音と似ている。 「今日も性懲りも無く持ってきました」  そう言って僕が取り出したのは少し歪な風鈴。  この歪みは千代子さんの瞳には映らない。 「私は好きよ、ひとつひとつ音色が違うもの」 「ありがとうございます――軒先に掛けますね。よいしょと」  縁側の上で背伸びをして、軒先の屋根に風鈴を掛ける。  ――ちりん  ――ちりんちりん  あいの風に優しく揺らされ、歪な風鈴が音を奏でた。 「今日の音も素敵……」 「ありがとうございます。師匠には怒られてばっかりで……僕の硝子細工を褒めてくれるのは千代子さんだけです──」 「きっと、武雄さんに期待しているから厳しくされているのね。私からしたら武雄さんはもう立派な一人前よ」 「恐縮です」 「本当よ。ずっと聴いていたいもの」 「あ、ありがとうございます――」  心臓の音をかき消すかのように風鈴が鳴る。  ――ちりん  ――ちりん  恋に落ちるのが一瞬なように、千代子さんと過ごす時間も刹那のように過ぎてしまう。  もっと一緒にいたい。  けど、そんな事を言う資格は僕にはない。 「また、明日も来ていいですか?」 「もちろん、待っているわ」
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