硝子の音色

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 次の日――  仕事終わり。いつものように風鈴を持って千代子さんの家へ向かった。  千代子さんの両親は日中は仕事で留守にしているらしいのだが、この日は違った。  庭先へ向かう途中、初めて彼女の父親と顔を合わせた。 「あっ――」 「ん……? 何か用あんたが硝子職人の武雄さんかい?」  千代子さんの父親は僕が手に持つ風鈴を見てそう言った。 「は、はい。そうです――あの!」  勝手に庭先に入っていた事を詫びようとすると、千代子さんの父親は言葉を被せてきた。 「娘から話は聞いていたよ。足を挫いた時に助けてもらったと――その人が庭先で風鈴の音を聴かせてくれるとね。どんな人なのかと聞いたら、そこの硝子工房で働いているそうだね。で、君に言っておかなきゃならん事がある。実は――千代子の嫁ぎ先が見つかったんだ」 「えっ……」 「目が見えなくても構わないと言ってくれていてね。先ほど挨拶を済ませたところだ。この先そんな人は二度と現れないだろう。だから――もう娘には会いに来ないでくれるか? 君はまだ若い。自分の仕事に専念しなさい」  青天の霹靂だった。  千代子さんが結婚。  ずっと、こんな時間が続くと思っていた。  心のどこかで、一人前になって稼げるようになったら……なんて淡い夢を描いていた。だが、人生は思い描いただけでは叶わない。 「……あの、最後に千代子さんに直接ご挨拶をさせてもらっても構わないでしょうか?」 「それで君の気が済むなら、行きなさい」  この人は僕が彼女に抱く気持ちを知っている。  千代子さんの父親に許可を貰い、彼女に会いに行った。  さっきまでとは音色が違う。  硝子の音色が少し悲し気になった気がした。  ――ちりん  ――ちりん 「お邪魔します、千代子さん」  いつもの着流しとは違い、綺麗な薄桜色の着物に身を包んだ千代子さんが居た。 「武雄さん……もしかして、父に会いました?」 「はい……」 「あのね、私――」 「千代子さん!」  僕は千代子さんの言葉を遮った。  彼女の口から結婚という言葉を聞きたくなかったからだ。 「御結婚おめでとうございます」 「まだ、婚約です……それに私は……」 「お父様はお相手の方を良い男だと仰っていましたよ」  そんなのは僕が今でっち上げた嘘だ。  彼女は顔も知らない相手と結婚しなくてはならないのだ。  父親の様子からして彼女に拒否権は無い。  千代子さんの不安を少しでも解消してあげたくて嘘を吐いた。 「そう、ですか――」  千代子さんの目が見えなくてよかった。  僕は今、酷い顔で泣いているだろう。 「武雄さん、傍にいらして」  座敷に敷かれた布団の上で上半身を起こす千代子さんに手招きをされる。  縁側より向こう側に入るのは初めてだ。 「失礼します」 「……今日はどんな音色なのかしら?」 「まずは別の物を渡してもよろしいでしょうか?」 「まぁ、何かしら?」  千代子さんの少し冷たい掌に硝子で作った(かんざし)簪を乗せた。  千代子さんはそれを両手で握り何なのかを確かめている。 「簪、かしら? 武雄さんが作ってくれたの?」 「はい、千代子さんの白い肌に似合……っ」 「武雄さん?」 「す、すみません!」  なんて格好悪いのだろう。  だが一度溢れ出した涙は止まる事を知らず次から次へと溢れてくる。  男が泣くなんてみっともない。 「すみま、せん――」  僕は千代子さんにはふさわしくない――  そう強く自分に言い聞かせる。  僕はお金も無い、ただの子供。  その時、千代子さんが僕の体を優しく包み込んだ。 「千、代子――さん?」 「少し、このままでいさせて下さい」  少しじゃなくてずっとこうしていたい。  着物からは白檀の香りと千代子さんの匂いがする。 「武雄さんと出会えて本当に良かった。貴方と過ごした時間はいつも幸せの音がしていたわ。――ずっと武雄さんの作る硝子の音色を聞いていたかった」  千代子さんの言葉はまるで別れの言葉だった。 「武雄さん、風鈴も貰っていいかしら?」 「はい……もちろんです」 「ありがとう。武雄さん……風邪に気をつけてね。それからちゃんとご飯を食べてくださいね、えっと、あと……」  ――本当は僕が千代子さんを気遣うべきなのに、僕は彼女の胸の中でただ泣きじゃくる事しかできなかった。千代子さんはずっと僕の髪を撫でていた。
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