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あの日から僕の時計の針は止まったままだ。
自ら時計のネジを巻こうとも思わない。
心の隙間を埋めるように仕事に打ち込んだ。
その甲斐あって師匠に一人前と認められた僕は、小さな工房をはじめた。
気がつけば、それも今年で十五年が経とうとしていた。
そんなある日――
買い出しで外へ出ると目の前を歩く女の子のまとめ髪に見覚えのある物が付けられているのが目に飛び込んできた。それを見た瞬間、いてもたってもいられなくなり荷物を放り出し、その女の子に声を掛けた。
「君! そこの硝子の簪簪のお嬢さん!」
女の子は周囲をキョロキョロと見渡し誰も反応していない事から自分が呼ばれているのだと気づいた。
「はい、何かご用ですか?」
「あの、そのガラスの簪――それは」
「え? ああ、これですか? これは母の形見です」
少し寂し気な表情で彼女はそう答えた。
――形見。
その言葉を聞いた途端、僕は膝から崩れ落ちてしまい簪の女のをひどく心配させてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
――どこかで彼女が幸せならそれで良いと自分に言い聞かせ生きてきたのに。
胸が一気に締め付けられる。
「き、君のお母様は……いつお亡くなりに?」
「去年の春です。眼病を患っていましたし、元々体が弱かったんです……いつものように薬を持って部屋に行くと眠るように亡くなっていました」
僕たちが出会ったのも春だった――
「この簪は母が亡くなる一週間前に私にくれた物です。母は一日も欠かさずこの簪を付けていました」
「君の……お父様は?」
「父は戦争で母よりも先に亡くなりました──強くて優しい父でした」
「そう……だったんですね。すみません……」
「あの、もしかして――貴方は、武雄? というお名前じゃないですか?」
「えっ!? ……はい」
「やっぱり! 母の簪の事を知っているからひょっとしてと思ったんです――貴方がそうだったんですね。母が私に簪をくれた時に“この簪(かんざし)はね、母さんの初恋の人がくれた大切な物なの”って話してくれたんです――父は亡くなっているのに“お父さんには内緒よ”って……その人の名前は武雄さん、そう言ってました……もしかして家にある風鈴も貴方が作ったんですか……」
僕の初恋はまだ終わっていない。
僕の中の君は、あの頃のままだ。
雪のように白い肌。
桜のような薄紅色の唇。
白檀の香り。
「千代子さん――」
人目もはばからず道の真ん中で泣きじゃくる僕を、通行人は避けて歩く。
「……武雄さんも、母の事をずっと想ってくれていたのですね」
地面に膝をつき、僕に合わせて屈む女の子は僕の震える肩をゆっくりと撫でている。
袖口からふわりと香る白檀の香りの所為で余計に涙が溢れ落ちた。
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