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◇◇◇
そして今、女性は、余命の限られた中で子供たちの姿を見守っている。
病魔に侵される運命は、きっと父から受け継いだのだろうけれど、結婚式で断ち切ったため、父は死の理由とはならない。稲穂が実り垂れ、刈り取られ朽ちていくように私は生きたのかもしれないと女性は思った。
…………
晩夏だった。穏やかな風が吹いていた。
若い稲穂が揺れている。少女があぜ道の草を踏みながら駆けてくる。「もうこんなに大きくなったんだ」、そう思って、少女の姿を眩しそうに見つめた。少女の後ろから、歳の小さな少年が追いかけてくる。その手には捕虫網が握られていた。
「ねえ。お姉ちゃん。トンボ捕って!」
死に臨んで、愛おしい夏の思い出は、ことのほか色濃く映った。
何という美しい情景だろう。
疑う余地など何もない、完璧な情景。空気があり、色彩があり、深呼吸し、心遊び、うたかたをうたかたとして慈しんでいる。
そんなに長い人生ではなかったけれど、自分は素晴らしい人生を生きたのだと女性は思った。
◇◇◇
そこで映像が途切れる。女性への投薬と電極を使った治療は終了した。
治療と言っても、死の苦しみを和らげるための治療だけれど。
最後に医師が告げる。
「ご臨終です。立派な人生でした」
医師は、枕もとの医療用コンピュータから仮想人生プログラム『ひと夏の思い出』のメモリーカードを外した。
了
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