ひと夏の思い出

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 ◇◇◇  最初に女の子を産んだ。子を産むというのは大仕事だった。特に支援の手が少ない彼女にとってはなおさらだった。自分の母は生きるのに精一杯だったし、弟は就職できぬまま大学にとどまっていた。夫には兄弟がいないし夫の父は介護が必要な体だったので、夫の母の日常は介護と仕事で埋め尽くされていた。  「なぜ生きることは、こんなにも苦しみの連続なの?」  「それは違うと思うな。本当は生きてるだけでもバラ色なのに」  男性の発想は、女性とは全く逆だった。それが何よりも幸いだった。  「どうしてそうなの?」  「俺、人の死に際をたくさん見てきたんだ。ほとんどの人は死の瞬間まで、たった一つの呼吸を次に繋ごうと必死だった。一呼吸するってのは、普段は全く気にしていないんだけれど、恵みに溢れた美しい行為なんだよ」  夫は、呼吸と同じように、食事と排泄と睡眠について語った。  生きることは、呼吸して、食べて寝て排泄することなのだ。それが、何より人にとって幸いなことなのだ。言われて初めて気が付いた。確かに、排泄したいのに排泄できなかったとしたら、それはどれだけ苦しいことだろう。  そんな夫だったから、女の子の次に男の子を産むことができた。  振り返って見ると、出産は排泄よりも苦しいけれど、美しい行為であると実感することができた。 .
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