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皐月は何も言い返さない。核心を突かれたような気がした。
正直、怖い。御三家の人間だからと命を狙われるのは。
自分が狙われやすい人間だと理屈では分かっていても、これまでの生活で命を狙われることなどなかった。きっと自分は大丈夫だと慢心していたことは否定できない。
ムカデに狙われたとき、はじめて命の危険を感じた。もう二度と、あんな経験はしたくない。それでも武器を持つことには抵抗がある。
普通の人が持てない武器を持つことで、自分が普通の人間ではないことを痛感させられるのだ。皐月はただ、「普通の生活」を送りたいだけなのに。
「あーあ」
呆れたような哲の声が放たれる。
「……別に皐月のことなんて放っといてもいいんだけどな」
哲がさらに続けようとしたとき、二人の隣を数人の女子大生が通り過ぎた。哲と皐月をちらちらと見ながら、何やらきゃっきゃと話している。
「……場所を変えよう。近くに車を停めてある。一緒に来い」
皐月に背を向けて、哲は歩き出す。
「え? 他に用があるんですか? 俺、帰ってしなきゃいけないことがあるんですけど」
「しなきゃいけないことって? 」
哲は立ち止まり、振り返る。
「えっと、ご飯作ったりとか掃除したりとか、勉強も……そう、勉強しなきゃいけないので。大変なんです、宿題とか多くて」
断るために、必死に口を動かした。哲はしばらく皐月の顔を見つめて、口を開く。
「ご飯も掃除も、あいつ一人でなんとかできるだろ」
「え? 」
予想していなかった哲の言葉に、皐月の顔が引きつった。哲は淡々と続ける。
「おまえの勉強時間を奪うほど拘束はしない。あいつにも言っておく」
「え、え~……」
一体どこまで皐月のことを把握しているのか。あぜんとしている皐月を横目に、哲は背を向けて歩き始める。
やはり哲には敵わない。皐月はもう諦めて、ついていくことにした。
†
国産の高級車に乗って、霞が関にまで移動する。もちろん運転は皐月だ。運転自体は得意で、好きで、この車も運転しやすくて、嫌な気はしない。助手席に哲が座っているということを除いては。
警視庁の近くにある駐車場に車を停めたあと、そばにある高層オフィスビルに二人は入る。ロビーフロアの奥に、老舗喫茶店「クラシカル」はあった。エリート会社員や官僚が通い、政治家がお忍びで来る程の格式高い名店として知られている。
店の内装はブラウンで統一され、クラシック音楽が有線で流れていた。家具や調度品も高級なブランド品で揃えられ、そこが特別な空間である雰囲気を醸し出している。
(ひゃー……いかにも高級店って感じ。初めて来たな)
店員が来て、二人は窓際の席に通された。慣れた様子で店になじんでいる哲に対し、皐月は縮こまっている。店の雰囲気があまりにも上品で、百合園邸とはまた違ったプレッシャーを感じさせた。なんだか落ち着かない。
皐月は自分のカジュアルな格好からして、ひどく場違いだと思った。
哲はお決まりのようにロイヤルミルクティーを頼み、皐月は無難にコーヒーを頼んだ。
注文した飲み物が来ると、二人はそれぞれカップに口をつける。しばらく無言の時間が続いた。
(き、気まずい……。でもコーヒーは美味しい。でも気まずい……)
皐月の頼んだコーヒーは香りが華やかで、飲みやすかった。苦みにクセもなく、純粋に美味しいと思える。きっと、この一杯で馬鹿みたいな値段がするに違いない。ぐびぐびと飲んではいけない気がして、丁寧に一口ずつ、ゆっくりと飲み進める。
哲は、皐月がコーヒーを飲む様子をじっと見つめていた。視線に気付いた皐月が顔を上げる。哲は口を開いた。
「紅茶じゃないんだな」
皐月は哲の言葉の意味を頭の中で噛み砕きながら、ゆっくりとコーヒーに視線を落とした。
「ああ……百合園だからですか? 」
百合園家の人間が日常的に飲むのは紅茶だ。三美神会議の場や客人に振る舞われる飲み物も、基本的には紅茶。
「家で麦茶を飲んでいる人が、こんな良いお店に来てまで麦茶をオーダーするかってことですよ」
「……それもそうか」
皐月はちびちびとコーヒーを飲み進める。
「家を出て行ってから、射撃の練習はしているのか? 」
唐突な質問に、皐月は目を泳がせる。正直に答えようか否か、迷っていた。
哲は立て続けに尋ねてくる。
「最後に命中率を測ったのは? 皐月の命中率はたいして高くなかったような気もするが」
皐月はカップをソーサーに置いて、バツの悪い表情を浮かべた。
「……最後に命中率を測ったのはおととしなんです。確か八十もいってなかったと思いますけど。それ以降はなんだかんだ測ってなくて……」
哲は渋い表情で言う。
「じゃあ、やっぱり、得意ではないんだな」
「まあ、そう……ですね」
皐月の命中率は動かない的に対して八十%。これは低いほうだ。
御三家の人間の中でも、銃を武器にする九条健一の場合、動かない的に対しては当たり前のように百%を維持している。不規則に動く的に対しても九五%を切らない。それは哲も同じだ。
動かない的に必ず当てるほどの腕がなければ、実践で自分の思うように撃つことなどできない。ましてや皐月の命中率では、実践時に外すことのほうが多い。
哲はロイヤルミルクティーを飲みながら尋ねる。
「おまえにとっては竹刀のほうがよっぽど扱いやすいだろう。剣道部なら持ち歩いても違和感はないんじゃないか?」
「そうかもしれませんけど、絶対に嫌です」
「……別に日本刀を持ち歩けって言ってるわけじゃないんだから。いや、日本刀のほうがいいとは思うけど」
皐月は目の前のコーヒーに視線を落とす。顔をしかめながら、苦々しく言い放った。
「そういう問題じゃないんです。俺、これ以上目立ちたくないんです。普通の大学生はそもそも銃とか刀とか持ち歩きませんから。銃刀法違反になっちゃうし」
哲は、あきれたように深いため息をつく。ティーカップをソーサーに置いた音が、虚しく響いた。
「おまえ、自分が普通の大学生になれるとでも思ってるのか? 」
皐月の体がぴくりと震えた。負けじと刺々しく言い返す。
「百合園に生まれた時点で普通じゃないって言いたいんでしょう? でも、俺は、普通の人たちの中で、普通の生活を送りたいんです。そのために、家を出たんだから……」
哲は何も言い返すことなく、ただじっと皐月を見つめている。皐月としては、それが一番きつい反応だった。いっそのこと説教じみたことを言ってくれたほうが、まだ楽だ。
哲は無言のまま、腕を組んで上を見つめる。そのあいだ、皐月はコーヒーカップに手を付けられないほどの重圧を感じていた。
やがて、哲は視線を皐月に向ける。
「別に俺は、皐月がどうなろうと知ったこっちゃない。そこまで言うからには、自分は命を狙われないという自信もあるんだろう。このあいだのムカデのことはとっくに忘れてしまっているらしいし」
痛いところをついてくる。声が冷静なぶん、言葉がずしりとのしかかってきた。
哲はティーカップを持ち上げて、口を付ける。
「和也も、皐月がそれでいいなら強要しないと言っていた。俺が無理やり持たせるように言ったんだ。それが結果的に皐月のためになると思ったから」
哲の言葉の中に怒りやあきれが含まれているのを、皐月はちゃんと感じ取っていた。
それでも、嫌なものは嫌なのだ。これは理屈ではない。
哲はロイヤルミルクティーを飲み進め、ティーカップをソーサーに静かに置いた。
「やっぱり……ガラにもないことするもんじゃないな。若いやつにお節介とかお説教なんてことはしたくないんだ。自分が老いたような気分になるからな」
哲は自嘲気味に笑う。突き放すかのような冷たい視線を皐月に向けた。
「銃も刀も持ちたくないなら持たなくていい。でも、よく考えてみろ。命を狙われやすい御三家の人間に配慮された特別な権利だ。それは、おまえがいつ殺されてもおかしくない状況にあるからこそなんだぞ」
哲は再びティーカップを手に取り、口に運ぶ。
皐月の心境は複雑だった。武器を持つことが許可される特別な立場など、自分には必要ない。だが、哲の言うことも理解はできる。
皐月の望みは、自分の家柄に縛られず、たくさん勉強して普通の幸せを感じながら生きていくことだ。
父親の仕事を継ぐつもりは一切ない。大勢の人間を助けることを名目にして、殺人鬼を殺す三美神。人として、親として、尊敬できるはずもない。
(そもそも父が三美神じゃなければ、俺が命を狙われることもないはずなのに……)
自分の家柄のせいで、皐月の望みが叶うことはない。普通の生活を送ろうとすればするほど、百合園の名が邪魔をする。
皐月はそんな自分の気持ちを、哲にも父親にもぶつけられないでいる。
父親が仕事をしているからこそ、何不自由ない恵まれた環境で育ってきた自覚はあるからだ。そのことに感謝していないわけでもない。自分の身を守るための教育だって、少なからず役に立っている。
面と向かって口汚くののしるほど、父親のことが嫌いなわけではなかった。
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