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今年の夏は何もかもが消し去られていった。
学生達の喧騒、繁華街の人混み。
山や海、祭り。
気温と湿度、それ以外の夏は根こそぎ連れていかれたのである。
本来なら夏は遊んで日焼けをすべき季節。
だが今年は友達とも集まる事すら出来ない。
それが新しい生活様式とやら、…らしい。
それでも夏季休暇は、もう直ぐやってくる。
ゴールデンウィークの様に、また断捨離でもするしか…。
独りのぼっちの連休ほど、つまらないモノはないのでは。
…そんな事を考えていたら駅に到着していた。
今年は仕事の総量も減り、たっぷり休めるとの事だった。
何も無い、最悪の連休が待ち構えている。
明日から夏季休暇、つまり休みの前日という事になる。
同僚が新しい自転車で出勤してきたのに遭遇した。
「あれ、新車ですねー?」
「そーなんだよ。」
「前のは故障でもしちゃったんですか?」
「それがさー。」
同僚の友人が自転車屋で、新車を破格値で買えたとの事だった。
「古い方は処分しちゃったんですか?」
「これからだよー。」
これはチャンスだと思った僕は咄嗟に提案してみた。
「捨てるのであれば僕に下さい。」
「いいよー、コッチとしても助かるわ。」
自転車ともなると処分する費用も結構するだろう。
トントン拍子で譲って貰える事になった。
自転車なら遠出も出来ないし丁度良いのでは…。
新しい生活様式にもマッチしていると推薦されてもいる。
少しだけ楽しくなりそうな予感がした。
退社後に同僚に付き添って自転車を受け取った。
職場は県を跨いだ場所で、同僚の家も然り。
僕は東京の自宅まで、かなり長い距離を走行する事になる。
「これ予備の鍵だからー。」
「あっ、ありがとうございます。」
僕は頂いた鍵をキーケースに取り付けた。
そのケースに付けられていた家の鍵を見て、同僚が尋ねてきた。
同じ鍵が二つ、重ねて付けてあったからである。
「何で同じ鍵を一緒にしてるのよー?
家鍵の予備なら別にしとかないとー。」
「あっ、そーですよね。」
僕はすっとぼけた返事を返しておいた。
(コレは一緒にしておきたいんだよね…。)
幸いな事に明日からは夏季休暇なので慌てて帰る必要も無い。
仮に日付けを跨いでも一人暮らしには何の影響も無かった。
僕にとってはノンビリ自転車で帰宅するというイベントなのである。
僕にとっては、かなり久々になる自転車の運転。
ソッチの方が少しだけ心配ではあったが。
「ありがとうございましたー。」
僕は同僚に礼を言いつつサドルを跨いだ。
そして自転車を漕ぎ始めた、ゆるりと。
歩いた事も無い道に滑り出して行ったのである。
日暮れの見知らぬ土地を自転車で走る。
それが、こんなにも爽快だなんて思いもしなかった。
新鮮な景色は、それだけで楽しい。
美味しそうな店を見掛けたら夕食にするのも妙案だと思っていた。
僕は道が判らなかったので通勤電車の線路沿いに走った。
川を二つ越えると県を出て都内に帰れる。
僕は一つ目の川を渡り始めた。
夕方の川を自転車で渡るのが、こんなにドキドキするなんて。
残り少ない日差しが川面で揺れて素敵な眺めである。
(綺麗だな…。)
川を渡り切って土手を滑り降りていく。
その途中でブレーキを掛けて停まってみた。
すると、物凄い既視感で眩暈がする程であった。
(何でこんなに懐かしく思えるんだろう…?)
暫く自転車を停めて景色の中に佇んでみる。
その土手を眺めているだけで軽く震える位であった。
(あ…、ここは…。)
今年はポスターが貼られていない為に気付けなかったのだが…。
毎年恒例の花火大会の会場であった。
急に色んな思い出が再生し始めてしまったのである。
頭の中で懐かしい声が話し掛けてくるのが聞こえてきた。
懐かしく甘く、そして切ない声が…。
「何で打ち上げ花火の掛け声って、玉屋と鍵屋なの?」
「確か花火屋の老舗とかじゃなかったかなー?」
去年、まだ同棲していた彼女と来た思い出の場所。
道順が駅からじゃなかったので、気が付くのに遅れたのである。
その時に彼女が好きだと言った花火を思い出す。
枝垂れ柳。
まるで残像の様に僕の記憶に流れ落ちて残っている。
結婚しても、どうしても子供は欲しくないと言った僕。
どうしても両親に孫の顔を見せたいと言った彼女。
彼女は就職を機に、両親の実家へ戻って行ってしまった。
まるで打ち上げ花火の様だった二人の日々が。
砕けて散って消えていってしまった。
それからも誕生日に祝福メールをくれたりは、した。
けれど、けれど…。
僕の心は線香花火の様に小さく咲いて。
燃え尽きてポトリと落ちた。
それから一度だけ荷物を取りに来て、いつもの様に帰っていった。
僕は、もう一度だけ彼女の声が聞きたかったのだ。
「ただいま。」
僕は思い出の土手を離れて、ペダルを再び漕ぎ始めた。
もう一つの川を渡れば東京である。
東京の外れにある我が家に到着するのも近い。
其処は、かつて二人で過ごした楽園であり天国であった。
(元気に暮らしているのかな…?)
川を渡っている途中で少しだけ涙が零れた。
まるで線香花火の最期の様に。
ようやく自宅まで辿り着いた。
夏休み前夜の小さな冒険も、これにて終了である。
それは予想よりも遥かに楽しくて、しかも切なかった。
思い出を思い出した事が、僕の夏の思い出である。
自転車を駐輪場に停めてエレベーターに乗る。
ポケットから鍵の束を取り出した。
二つの内の一つは、彼女から返されたものである。
僕は部屋の前に立ち、二つの鍵を眺めてから差す。
ドアを開けながら、誰も居ない真っ暗な部屋に向かって言った。
「ただいま。」
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