ある日の、夏の、喫茶店までの、

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 四畳半の狭い一室で私は今日もひたすらに執筆をしていた。  半ば閉じこもる生活で半年経つが、こんな部屋でも外界の様子は知りようがある。インターネットが一般社会に普及して数十年だ。むしろ知らないままでいるのは怠惰そのものであり、落ちぶれのあり方でもあるだろう。例外があるとすれば、俗世からの別離を望んでいるか、何物かに望まない形で拘束されていることくらいだ。  ネットニュースでは、今日の外気は三十五度を超えるらしい。どうにもさっきから暑いはずだ。正午を過ぎたばかりで、今まさに最高気温まで上がっているところだろう。  エアコンが壊れた四畳半は、外気の熱を徐々に溜めはじめていた。  こうなってしまっては、風を求めて窓を開けるのは逆効果になる。開けたその瞬間に、熱風が部屋に残る冷気を消し去ってしまうからだ。  外に出て場所を変えるべきかと悩む。  そのためには、まずは外に出るための服から探さなければならない。  執筆のためとはいえ、この半年に外に出たのは十二回くらいしかいない。一ヶ月に二回だけの外出。必要最低限まで行動を削った結果だった。  頻度があまりに少なすぎて、外に出るだけでも、私としては小旅行のような準備の負担になるのだ。ましてやそれは買い物のためだ。執筆の空間を探して出かけるとなれば、旅行の感覚どころでは済まされないかもしれない。  なんて、妄想が肥大してしまうくらいは、買い物以外の外出は久々だった。  ともかくこのままでは蒸し風呂のような部屋で茹で上がってしまう。私は筆記用具とノートを鞄につめて、外に出ることにした。服はいつも買い物で使うジャージに決めた。  あつい。そりゃそうだ。蒸し焼きが嫌で飛び出してきたのだから、原因たる外が暑くないはずもない。外に出て数歩進んで後悔に負けそうだった。  太陽の光がきつい。このまま引き返して蒸し風呂に甘んじてしまいたくなる。どのみちの結末が一緒であれば、動かない怠惰を賢いと誤認してしまいたかった。  嘘だろ。道路から陽炎が見える。  人生初の現象の目撃も、暑さの前では添え物だ。今は進むしかなく観察もままならない。  汗が止まらない。喉はもう渇きを覚えている。大して運動もしていないのに呼吸さえ苦しい。じっとしてみれば目玉焼きみたいに硬く焼き上がるのではなかろうか。  ともかく動かして、ネットで予め調べてあった喫茶店に歩いた。私は半熟派なので、ここで焼き上がるわけにもいかないのだ。  ああ、くらくらする。どうして外に出たのかさえ、思いはじめる。暑い。とにかく暑い。  喫茶店ではまず冷たい飲み物を頼もう。アイスコーヒーがいい。添え付けはチーズケーキにしようか。なければアイスにしよう。あの甘く冷たいものをほてった喉に通す快感は、思い出すだけでも魔性のそれを感じる。だって今に喉の渇きが増しているからだ。  そういえば、部屋を出るとき、郵便受けに何か封筒が届いていたような。あ、今日新聞の回収日だっけ。明日は燃えるゴミの日だったはず。風呂掃除は終わっているから、準備もすぐに終わる。  暑い。喉がもう、限界だ。  蝉がうるさい。太陽の熱のすさまじさを、身を持って実感する。あんなものが数十億年前単位で燃えているのだから、エネルギーとはなんぞや。しかし、この熱があるからこそ蝉という夏の風物詩たる生物が生まれて……じゃあ暑くなけりゃ蝉もいなくていいんじゃね? いや万物の流転こそがエネルギーの本懐で、そもそもの変化が我々に生命を与えたのであれば、ここで悪態つくのは自己否定になってしまう。  うん? 感情と現状の事実を結びつけてしまうのはいかがだが、だからといってすべてを切り離す合理性の一極化は思考の遊びを妨げる。葛藤こそが人間らしさと思う。であれば、ここで切り離して考えるのも一つだが、切り離そうと悩むのもまた一つということだ。  ようやく看板が見えてきた。からん、と来客を知らせる鈴が鳴る。  ドアを開けた途端の冷気に救われた気分だ。カウンターの店員に席の案内を任せて、私はその後ろを安寧に綻んだ顔で歩く。ふふ。  さて。さっそく冷たいコーヒーにあやかるとしよう。ひとまず執筆のことも置いておこう。 暑さで茹で上がりそうだった思考遊びもどこへやら。探しても見当たらないのだから、見つけたときに拾うとしよう。完熟は好みではないのでたぶん拾わないけど。  アイスクリームも食べよう。  エアコンを買い直そう。  それからそれから。うーん、甘い。
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