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フェンネル謎解記録帳~愛しき花
殺風景な病室。ベッドに半身を起こした青年が、激しく咳き込んだ。
青年の手元には一冊の本。青年は咳をしながらも、その一ページをぱらりとめくった。
「……あ……」
本の内容に視線を走らせていた青年の口から、咳以外の声がもれる。だが、それもすぐに咳へと変わり、それが収まってからも、しばらくは呼吸が荒い状態が続いた。
苦しそうにしながらも、青年は横になろうとしない。それどころか、しばらく考える顔をしたかと思うと、ベッド横の引き出しからメモ帳とペンを取り出し、何事かを綴り始めた。
青年は時折、本に視線を落とす。かと思えば、傍らに積まれていた別の本に手を伸ばし、ページを繰り、視線を走らせる。そしてまた、何かを紙に綴る。
静かな病室に、紙上をペンが走る音と、咳き込む音だけが響いていた。
◆
「ありがとうございました! またお越しくださいねー」
和樹の声に手を振るように、ドアベルがカランコロンと軽快な音を立てた。ドアが完全に閉まり、客が一人もいなくなった事を確認してから、和樹は「ふー……」とため息を吐く。少しだけ、疲れたようだ。そして、何かを思い出したように「あ」と呟く。
「乾さーん。グラジオラスが、もうほとんどありませんー」
和樹の呼びかけに、店の奥で何か作業をしていたらしい店長の乾がひょこっと顔を覗かせる。「そう?」と言ってから、顔以外の身体も現した。
「じゃあ、発注は僕がしておくから、和樹君はこっちの片付けをお願いできるかな? それが終わったら、ちょっと休憩して、お茶でも飲もうか」
フラワーショップ「フェンネル」は、駅前にある花屋だ。店長の乾洋一はまだ三十手前の若さだというのに、この店は広くはなくともどこもかしこも綺麗で閉塞感も無く、花の品揃えも半端ではない。この店に来れば、季節を問わず大概の花が揃うという噂まで立っている。一体どんなマジックを使えば、年若い乾がこのような店を構える事ができるのか……近隣一体の七不思議の一つですらあるらしい。
そんな感じの綺麗で品揃えで良い店であるので、フェンネルはそれなりに人気がある店なのだが、それでもぽっかりと暇な時間ができる事はある。……と言うか、駅前ではあるが、駅自体がそれほど大きくない規模なので、それほど忙しい事には滅多にならない。だからこそ、仕事がひと段落したら休憩してお茶を飲む……なんて事もできるというわけだ。
お茶の提案に和樹が賛成し、乾の元へ行こうとした時。再び、カランコロンとドアベルが軽快な音を立てた。
和樹は、「あ」と呟くと、慌ててドアの方へと歩を進める。
「いらっしゃいませー……って……」
和樹の声音が、営業スマイル風から若干砕けた風になった。それに気付いた乾がドアの方に視線を遣り、「あれ?」と珍しい物を見たような顔をする。
そこには、二人の女性が立っていた。勝気そうな顔と、大人しそうな顔。なんというか、丁度バランスが取れている……という感じの組み合わせだ。乾はそのうちの、勝気そうな顔の女性に視線を向けた。
「確か、和樹君と同じゼミの……三宅さん。いらっしゃい」
「こんにちは、乾さん」
頭を下げて、女性――三宅友美は乾と和樹に交互に視線を向けた。
「……間島君、それに、乾さんも。今、ちょっと良いですか?」
どこか困惑した様子の三宅に、乾と和樹は目を合わせる。
「俺は、別に良いけど……」
「僕も、別に構わないよ。丁度、少し休憩しようかって話してたところだしね」
そういう二人――正確には乾――に「ありがとうございます」と再び頭を下げて。三宅は連れの女性に視線を向けた。
「じゃあ、お言葉に甘えて……児玉さん」
三宅に声をかけられ、児玉と呼ばれた女性はぺこりと頭を下げた。
「あの……こんにちは」
緊張しているらしい児玉に、乾はニコリと満面の笑みを向けて見せた。
「はい、こんにちは。ようこそ、フラワーショップ・フェンネルへ。僕は店長の乾洋一。こっちはアルバイトで、三宅さんの同ゼミ生の、間島和樹君」
自己紹介を受け、児玉は「はい」と小さな声で頷いた。一挙一動が、一々小動物のようで可愛らしい。
「……あの、私、児玉りら、って言います。三宅さんには、悩んでいる時に力を貸してもらった事があって、それで仲良くなって……」
「児玉……りらさん? ちょっと変わった名前だねぇ」
確かに、日本ではあまり聞かない名前だな、と和樹は思う。児玉は、特に嫌な顔もせずに頷いた。
「あ、はい。よく言われます」
「えーっと……それで三宅さん、この人と三宅さんの関係は? あと、今日はなんでフェンネルに?」
和樹に問われ、三宅は「あぁ、うん」と頷いた。どことなく、困った顔をしている。
「この人、私がバイトしてる本屋のお客さんで……今、ちょっと頭を抱えちゃってる問題があるのよ。それで、花屋さんに相談してみればなんとかなるんじゃないかって思って、ここに連れてきたんだけど……」
「花屋に?」
声を揃えて、乾と和樹は首を傾げた。すると、児玉が申し訳なさそうに「はい……」と頷く。
「……すみません、ご迷惑でしたよね?」
「あ、いや。そんな事は無いよ? それで、俺達……花屋に相談したい事って?」
慌てて否定し、話を本題に戻す。児玉は、少しホッとしたような表情を浮かべて、口を開いた。
「はい。……えーっと、どこから話したら良いのか……あのですね、私には男の子の幼馴染がいまして。藤原秀くんっていうんですけど……」
「その藤原君って幼馴染が、体が弱くて。今も入院しているんですって。たしか、うちの本屋で悩んでたのも、藤原君に持っていく本はどれが良いか……だったわよね?」
話を補足した三宅に、児玉は「そうなんです」と頷いた。
「秀くん、体が弱くて中々外にも出られないから、花とか動物とか、星座なんかの、綺麗で、見ていて楽しくなるような図鑑をプレゼントしようと思ったんですけど。……いざ図鑑のコーナーに行ってみると何種類もあって、どれが良いのかわからなくなっちゃいまして……」
「あぁ、それで店員の三宅さんが相談に乗ってあげて、それが切っ掛けで仲良くなった、って事なんだ」
乾の推理に、三宅が頷いた。心なしか、乾の顔は誇らしげだ。
「それで……今回の相談っていうのも、その藤原君絡みなのよね?」
三宅の言葉に、児玉は「はい」と頷いた。
「今回の入院はちょっと長かったんですけど、それでももうすぐ退院できる事になって。だから、退院祝いに何かしたいと思ったんです。それで、秀くんに何か欲しい物は無いか、って訊いてみたんですが……」
「……が?」
どこか話し難そうな児玉の言葉に、和樹は首を傾げる。三宅が、児玉の言葉の続きを引き取った。
「具体的に何が欲しいとは言われなくて、代わりにメモを一枚、渡されたんですって」
「メモ? それって、メモに書いてある物が欲しい、とか、そういう事?」
乾に、児玉が「そうなんだと思います」と肯定した。そして、何か思い出したようにハンドバッグを開ける。
「あの……これが、渡されたメモなんですが……」
そう言って、児玉は一枚の紙切れを和樹達に差し出した。真っ白で味気ないその紙を、和樹と乾は「どれどれ?」と覗き込む。そして、目を丸くした。
「……何だこりゃ……」
和樹が思わず唸ってしまうような文字の羅列が、そこにはあった。
みたずのとたたみのたとしさんどためのひたのえさたるのひたつちたのととたりのたひみたずのといのたひのはたな
何の法則も無く、ひらがなが並んでいるようにしか見えない。だが、メモの隅に目を止めた乾が「あ、なーんだ」と呟いた。一同の目が、一斉に乾に集まる。
「簡単じゃないか。メモの下の方にタヌキの絵が描いてあるだろ? だから、この文章から『た』を抜いて読めば……」
確かに、メモの隅にはタヌキの絵が描かれている。そこそこ上手いのは、病室でやる事が無くて練習をしたからだろうか。
それはともかく、自信満々に言う乾に対して、三宅が深いため息をついた。そして、呆れ顔で言う。
「乾さん。それぐらいは私達もわかってますよ。……って言うか、そんなに簡単な暗号なら、わざわざここまで相談に来たりしないです」
「う……だよね。……という、事は……?」
情けなく項垂れる乾の姿に、三宅は再びため息を吐いた。そして、視線を和樹へと向ける。
「とにかく、『た』を抜いて読んでみて。間島君」
「え? あ、うん。えーっと……みずのとみのとしさんどめのひのえさるのひつちのととりのひみずのといのひのはな……」
何度も舌を噛みそうになり、和樹の顔も何やら噛んだような風情になる。そして、項垂れていた乾が持ち直し、「うわっ……」と呟いた。
「……『た』を抜いても……」
「そう。かなり長くて、意味不明なんです」
三宅の言葉に、児玉が「ただ……」と続いた。
「最後に『はな』……とついているので、植物の花の事なのかなぁ、となんとなく思ったんです」
「なるほど。それでここに……」
納得した様子の乾に、三宅が頷いた。
「餅は餅屋、花は花屋、でしょ? ……それで、乾さん、間島君。これ、どんな花の事なのかわかる?」
問われ、乾は腕を組んで唸る。
「いや……うーん……。悪いけど、こんな名前の花は聞いた事が無いなぁ……」
乾の答に、児玉は「そう、ですか……」と残念そうに俯いた。
「……そうですよね。こんな、図鑑を調べても名前が出てこないような花……」
「図鑑……図鑑か……」
「? 和樹君?」
それまで黙って話を聞いていた和樹が考えながらも口を開き、それに一同は振り向いた。
「何? 何かわかったの!?」
「えっ……!」
三宅が期待するように、児玉が驚いたように目を輝かせる。すると、和樹は「うーん……」と唸りながら、視線を三宅と児玉に向けた。
「わかったと言うよりは……何かわかりそうかも、って感じかな? ……あ、児玉さん?」
「は、はい!?」
名を呼ばれて思わず硬直する児玉に、和樹はにっこりと笑いかけた。
「今から、いくつか質問をしたいんだけど……良いかな?」
「は……はい、もちろん!」
児玉の返事に、和樹は頷いた。そして、問いたい事を頭の中で整理する様子を見せてから、口を開く。
「まず……その藤原さんって、入院してない時は大学とか通ってるの?」
「いえ……体が弱くて、講義を休みがちになってしまうので……大学には通わず、通信教育で学士号の取得を目指しています」
その答に、和樹は「ふむ……」と軽く唸る。
「……つまり、大学生として専門分野を学んでいるって事だね? ……ちなみに、専攻している分野は何かわかる?」
「たしか、古典とか、民俗学とか……そんな感じの、日本の歴史や文化に関わる分野だったと思います」
「なるほど……」
呟きながら、和樹はちらりと壁を見た。乾もつられて壁を見たが、「二〇一三年四月」と大きく書かれた、何の変哲もないカレンダーがかかっているだけだ。
首を傾げた乾をよそに、和樹は話を続ける。
「じゃあひょっとして、病室には古典とかの本も積んであったりするわけだ?」
和樹に問われて、児玉は少しだけ思い出そうとする仕草をした。そして、軽く頷く。
「……えぇ、はい。源氏物語や伊勢物語のような昔の物語はもちろん、衣装とか、食べ物とか、暦や生活習慣に関する本まで……」
それを聞いて、和樹は「あー……」と言葉にならない声を発した。何やら、苦笑している。
「どれも、俺には眠そうだなー。そんな本ばっかり読んでて、たまに児玉さんが綺麗で楽しそうな図鑑とかを持ってきてくれたりなんかしたら、やっぱすっごい嬉しいんだろうなー……」
「そ、そうですかね……?」
照れた様子の児玉に、和樹は「そうそう」と明るく頷いた。そして、「あ、それでさ」と言って質問を続ける。
「児玉さんが見舞いに持ってった図鑑って、どれも一冊ずつ? 例えば、動物図鑑を二種類持ってったーとか、花の図鑑とはまた別に植物図鑑を持ってったーとか」
その問いには、児玉は首を横に振った。
「いえ、そんなに同じ物を何冊も持って行っても仕方がありませんし……動物も、花も星座も、三宅さんのお店で買った一冊ずつしか……」
「ちょっと、間島君? それがどうしたの? 児玉さんがお見舞いに持ってった本が、うちの店で買った物だと何か問題でもあるわけ?」
不機嫌そうに詰め寄る三宅に、間島は「違う違う」と首を振った。様子が、どこか必死だ。
「そういうわけじゃなくって……むしろ、三宅さんのところだけで買ってて、助かったかな?」
「? それ、どういう……」
三宅が最後まで言う前に、乾が「あっ」と声をあげた。
「和樹君、ひょっとして……」
和樹は乾に向かって黙ったまま頷くと、視線を再び三宅へと向けた。そして、問う。
「……三宅さん。その、児玉さんに選んであげた本って、どういう本だったか思い出せる? 俺が同じ本を手に入れる事はできるかな?」
「覚えてるし、売れた本は何日かしたら新しく入荷するシステムになってるから、そろそろ同じ物が店に並んでる頃だと思うけど……何? 間島君、うちの店で本買ってくれるの?」
期待のまなざしを向ける三宅に、間島はにこやかに頷いた。
「うん、三宅さんが、レジでこっそり値引きしてくれるなら」
瞬時に、三宅の顔は不機嫌になった。
「……だったら、タイトル教えてあげるから、別の店で買ってくれる?」
和樹は「冗談だって……」と苦笑した。
「じゃあ、悪いんだけど、一冊取り置きをお願いできるかな? 絶対に買いに行くからさ」
その言葉に、三宅は機嫌を直した様子で頷いた。
「わかったわ。丁度、夕方からバイトだし」
「頼むよ。……あ、それから、児玉さん?」
「は、はい」
依頼人であるはずの自分抜きでどんどん進んでいく展開に目を白黒させていた児玉は、慌てて返事をした。そんな児玉に、和樹は申し訳なさそうに言う。
「申し訳ないけど、今日すぐにこのメモに書いてある物が何なのかを知るのは難しそうなんだ。色々と調べなきゃいけない事もあるし……例えば、明後日とかでも大丈夫かな?」
その問いに、児玉は「え?」と首を傾げてから、「はい」と頷いた。
「大丈夫だと思いますけど……」
「なんで? 今日中にはわからなくても、明日にはわかるかもしれないんでしょ? なら、別に明日でも……」
乾の問いに、和樹はふるふると首を横に振った。
「明日わかっても、肝心の物が無ければ意味が無いじゃないですか。明日わかった時点で発注しても、入荷するのは明後日。だったら、初めから明後日にしておいた方が確実じゃないですか」
その言葉に、一同は目を丸くする。
「発注……って事は、やっぱりこのメモに書かれている物って、花なわけ?」
三宅の言葉に、和樹は「んー……」と曖昧な唸り声を発した。
「俺の予想が当たっていればね。……まぁ、はずれているかもしれないし、続きは明後日という事で」
そこで、ドアベルのカランコロンという音が店内に響いた。どうやら、客が来たようだ。
「あ、いらっしゃいませ!」
弾かれたように、接客へと向かう和樹の後姿を眺め、それから視線を児玉へと遣って。三宅は声をかけた。
「……って、言ってるけど……?」
児玉は、少しだけ考える様子を見せてから、視線を三宅と乾へと向けた。
「……今日は、もう帰ります。……店長さん、また明後日、お邪魔しても良いですか?」
「もちろん、構わないよ。……あ、帰る前にお茶でも飲んでく? 喋りっ放しで、のど乾いたでしょ?」
乾の提案に、児玉は首を横に振った。
「いえ、これ以上お仕事の邪魔をするわけにもいきませんから、お気持ちだけで。それじゃあ、また明後日、お邪魔します」
そう言って、児玉はドアの方へと歩いていく。それに続くように、三宅も踵を返した。
「じゃあ、私もこれで。……乾さん、間島君にちゃんと今日中に買いに来るよう、念を押しといてくださいね」
言われて、乾は苦笑する。
「わかったよ、ちゃんと言っておく。じゃあ、二人とも気を付けて」
乾の言葉に頷き、三宅と児玉は店の外へと出て行く。カランコロンというドアベルが、軽快な音を立てた。
閉まったドアと、接客を続ける和樹を交互に見て。最後に乾は、児玉が残していったメモをもう一度見た。相変わらず、意味不明なひらがなの羅列にしか見えない。
「……全ては明後日、か。……まぁ、僕の出る幕は無さそうだし。せめて和樹君が考え事に集中し過ぎて変なミスをしないように、フォローを徹底するかな」
◆
それから二日後。ドアベルがカランコロンと軽快な音を立てた事に気付き、和樹は振り返った。ドアから入ってきた二人を認め、にっこりと笑う。
「お、時間ぴったり。流石は三宅さん、文学ゼミの頼れる姐御!」
「姐御っていうのは関係無いでしょ? ……って言うか、姐御っていうのやめてくれない?」
不機嫌そうに言う三宅に、和樹は「ごめんごめん」と言いながら苦笑した。そして、「さて」と言って場を仕切る。
「みんな揃った事だし、花が枯れないうちに、あのメモの説明をしようか」
「花って……やっぱり、あのメモに書かれていたのは花の名前だったんですか?」
児玉の問いに、和樹は「うん、そう」とあっさり頷いた。そして、メモを取り出して眺めながら説明を始める。元々書かれていた「た」の文字は、既に二重線で消されている。
「……みずのとみのとしさんどめのひのえさるのひつちのととりのひみずのといのひのはな……これだけだと、長過ぎて何のことかさっぱりわからない。どこも区切られてないしね。だから、まずは読んで理解しやすくなるように、どこかで区切っていく必要があるわけだ」
「……と言われても……一体どこを? 最後の「はな」の前で区切るんだろうなって事はわかるけどさ」
乾に言われ、和樹は頷いた。
「ただ漠然と見ただけだと、他に区切る箇所は無いように見えますよね? けど、よく見てください。……みずのとみのとしさんどめのひのえさるのひつちのととりのひみずのといのひのはな……この文章の中に、同じ文字の羅列が、四か所あるんですよ」
「え……?」
言われて、和樹を除く三人は額を寄せてメモを覗き込んだ。
「……みずのとみのとしさんどめ……あっ! 本当だわ。『の』と『ひ』が続く箇所が、四つある」
和樹は頷き、話の続きに戻る。
「……という事は、『のひ』という言葉で、一旦区切る事ができるんじゃないかな? ……と考える事ができるわけなんだ。『のひ』の前で区切るのか、後で区切るのか……だけど、それは……」
「あ、『のひ』ってひょっとして……きょーは何の日? 魚の日ーの、『の日』?」
スーパーの鮮魚コーナーで流れている歌だろうか。ノリ良く歌い上げた乾に、三宅がどこか冷たい視線を向ける。
「歌わなくても良いですよ。……となると、『のひ』が終わるごとに区切って……」
頷いて、和樹はエプロンのポケットからボールペンを取り出した。そして、文章の中に読点を書き込んでいく。ついでに、「ひ」は横に「日」と書き足した。
みずのとみのとしさんどめの日、のえさるの日、つちのととりの日、みずのといの日、の花
「どう? 何か、見えてこない?」
問われて、三人は「うーん……」と唸った。やがて、三宅が「あ」と呟く。
「この『つちのととりの日』っていうのは、どこかで聞いた事があるかも……」
「……そう言われてみれば、僕も。……どこで見たんだったかな?」
次いで、児玉が「あっ」と小さな声で叫んだ。
「ひょっとして、十干十二支……」
和樹が「そう」と言って頷いた。
「昔の人は、十個の干と、十二支で年月日を表していたんだよね。十二支は知っての通り。十干は……甲、乙、丙(ひのえ)、丁、戊、己……えーっと、あとは……」
「庚、辛、壬、癸……です」
「そうそう! さっすがー!」
嬉しそうに言い、そして和樹は児玉に問う。
「多分、藤原さんが病室で読んでるって本にも、こういう単語は出てくるんだよね?」
「はい。秀くんの専門分野です。……あ!」
言ってから、児玉は少しだけ驚いた顔をした。それに、和樹は頷いて見せる。
「そういう事。この干と、十二支を一つずつペアにしていくんだよね、確か。例えば、己、酉、とか、癸、亥、って具合にさ」
「そう言えば、高校時代にちょっとだけ習った事があるかもしれないな。十と十二で数が合わないから、余った十二支にはまた一から干を当てていく。両方がぴったりペアを組み終わると、全部で六十組できあがってるんだっけ?」
「あ、そっか。ワンペアを一年と考えて、一周するのに六十年かかるから、六十歳で還暦なんだっけ」
思い出した知識を口にする乾と三宅に、和樹は「そうそう」と同意した。
「……で、話がずれたから元に戻すんだけど。『のひ』で区切ると、この十干十二支が姿を現すんだよね。己酉の日、癸亥の日……多分、その上は丙申の日だと思う」
そう言って、和樹は最初の「日」の字にバツを書き、「ひ」に戻した。それから、改めて漢字に書き直す。
みずのとみのとしさんどめの丙申の日、己酉の日、癸亥の日、の花
「最初のこれ。丙や丁じゃなければ、こんな紛らわしい事にはならなかったんだろうけど……これだと、単語の中に『のひ』って羅列が入っちゃうからね」
苦笑しながら、和樹は右手でボールペンをくるくると回す。訂正が終わったメモを見ながら乾が「ひょっとして……」と呟いた。
「一番最初も、十干十二支かな? ほら、癸巳の年……となると、残る言葉は『さんどめの』……三度目……三回目?」
癸巳の年三度目の丙申の日、己酉の日、癸亥の日、の花
「……だと思いますよ」
和樹は頷き、「ちなみに」と言葉を足した。
「インターネットで調べてみたんですけど。今年、二〇一三年が、丁度この癸巳の年でした」
「じゃあ、丙申の日とか、己酉の日っていうのは……?」
三宅の問いに、和樹は誇らしげに「それも検索済みだよ」と胸を張った。
「……『三度目の』って言葉が書かれてるって事は、一周で六十日の十干十二支が、既に二周は終わってるって事。つまり、二〇一三年になってから、百二十一日以上が経過していて、尚且つ百八十日以内である期間で丙申の日、己酉の日、癸亥の日に当たる日を調べれば良いって事になる。でもって、今年そこに当たる日は、五月三十日、六月十二日、六月二十六日になる」
その説明に、乾が「ちょっと待って」とストップをかけた。気にかかる事がある、という顔だ。
「三度目、ていうのが、丙申の日だけにかかってるって可能性は? 己酉の日と癸亥の日は、一周目にあたるとか……」
「それだったら紛らわしいから、それぞれに『一度目の』って書き足すと思うんですよね。そもそも、三度目を先に書いて、一度目を後にするって不自然じゃないですか?」
「あ、それもそうか……」
頭を掻く乾を尻目に、和樹は「……というわけで」と言いながら視線を三宅と児玉に遣った。その顔は、どこか楽しそうだ。
「このメモに書かれているのは、さっき挙げた日の事で良いと思う。それで……何月何日の花、って言われたら、何か思い出さない?」
問われて、少し考えて。児玉が「あっ」と目を丸くした。
「ひょっとして……誕生花、ですか?」
「そうか! ……え、でも、何で三日も? 児玉さん、この中のどれかが誕生日だったりする?」
三宅の問いに、児玉はふるふると首を横に振った。
「いえ、どれも違います」
児玉の言葉を受け、三宅は不可解そうな顔をした。そして、「大体」と言いながら視線を和樹へと向ける。
「誕生花なんて、本によって全く違う事が書いてあったりするわよ? 同じ日なのに、ジャスミンだったり、花菖蒲だったり……」
「……それ、もしかして三宅さんの誕生日?」
乾の問いに、返事は無い。和樹が、三宅の言葉に対して「うん」と頷いた。
「確かに、誕生花って本によって書いてある花が全く違ったりするよね。ネットで調べてみても、そうだった。……けど、入院していて気軽にインターネットができない藤原さんが参考にすると考えられるのは、一冊しかないよね?」
「あ……!」
思わず大きな声を出し、児玉は恥ずかしそうに口元を手で隠した。三宅も、目を丸くしている。
「それって、ひょっとしなくても……児玉さんがうちの店で買った、花の図鑑!?」
「そう。だから俺も、三宅さんに頼んで、全く同じ本を買ったってわけ。そうしたら、予想通り。この本には誕生花や花言葉まで、一覧で載ってたよ。……読んでみて、驚いたなぁ。誕生花って、同じ日に二種類や三種類あてはめる事もあれば、同じ花を別の日にあてたりもするんだね」
乾が、「同じ花を別の日……」と呟いた。
「じゃあ、その。さっきの五月三十日、六月十二日、六月二十六日っていうのは……」
和樹は、頷いた。
「はい。全部に、同じ花の名前が記載されていました。それが、これです」
言いながらバックヤードに入り、花束を一つ、持ってくる。薄紫色の小さな花が一枝に集まっている。それを、何本も束ねて作った花束だ。そして、児玉に差し出す。
「……この花は?」
問う児玉に、和樹はにっこりと笑って見せた。
「ライラック。和名は、ムラサキハシドイ。春を象徴する花の一つで、庭木や鉢植え、切り花としても非常に人気がある花なんで……用意するのは、そんなに難しくなかったかな」
「これが、秀くんが欲しいと思っている物、なんですね……」
児玉の声が、心なしか震えている。それを安心させるように、和樹は頷いた。
「……俺の推理に、間違いが無ければね」
児玉の顔が、パァッと明るくなった。そして、勢いよく頭を下げる。
「あ、ありがとうございます……! きっと、秀くんも喜びます!」
そんな児玉に、和樹は「良いって、良いって」と言いながら手をヒラつかせた。
「お礼は良いから。早くそれ持って、行ってあげなよ。花が綺麗に咲いているうちにさ」
「……はい!」
頷き、児玉は代金を支払うと慌ててドアから出て行った。カランコロンと、ドアベルが軽快な音を立てる。その後ろ姿を少し心配そうに眺め、三宅もドアから出て行こうとする。
「……私も、ついていこうかな。児玉さん、ものすごく嬉しそうだけど、その反面、ものすごく緊張もしてるみたいに見えるし」
「あ! 三宅さんは行かない方が良いよ!」
慌てて止める和樹に、三宅は「なんで?」と首を傾げた。和樹は、少々言い難そうに頭を掻く。
「えーっと……児玉さんには言わなかったんだけどさ……ライラックっていうのは英語での名前なんだけど……実はあの図鑑、他にフランス語の名前も書いてあったんだよね」
「フランス語の?」
乾も首を傾げ、和樹は「はい」と頷いた。
「ライラックのフランスでの名前は……リラ、っていうんだそうです」
「リラ? リラって……え?」
乾が、目を丸くする。和樹は少しだけ照れくさそうに言った。
「そう。児玉さんの下の名前……りら、でしたよね? ちなみに、リラ……ライラックの花言葉は愛の始まり、だそうです」
「じゃあ……!」
三宅が、目を輝かせた。それに苦笑し、和樹は頷く。
「……花を持って行った児玉さんに、藤原さんが何て言うか……簡単に想像がつくね。たぶん、こうだよ」
「りら……よくわかったね。そう……僕が欲しかったのは、この花だ。……けど、本当に欲しかったのは、このリラじゃない。僕が欲しいのは、花のリラじゃなくて……児玉りら、君の事だよ……」
「え……?」
「りら……体の弱い僕の事をいつも心配してくれて、ありがとう。いつも僕の暗い病室を明るく照らしてくれる、君の事が……好きだ。僕は、君が欲しいんだ、りら……!」
「秀くん……!」
「……みたいな?」
逞しい想像力を披露した和樹に、三宅は少々呆れた顔をした。
「それは……ちょっとクサ過ぎじゃない? 言わないわよ、そんな事」
「そうかな? たしかに和樹君の想像は芝居がかってるけど、似たような事なら言うんじゃないかな?」
意外にも同意した乾に、和樹は「ですよね! そう思いますよね!」と嬉しそうに言った。その様子に、三宅はまたも呆れた顔をする。
「はいはい。……でも、そっかー。そういう事だったんだ」
そう言って、三宅は少しだけ頬を染めた。
「……良いなー、自分に見立てた花で、プロポーズかぁ……」
その様子に、乾が「お」と目を輝かせた。
「やっぱり三宅さんも、そういうシチュエーションに憧れたりする? ……だったらさ、和樹君」
「? はい?」
振り向いた和樹に、乾は店頭の花を指差した。
「三宅さんに一輪、花を選んであげなよ。それくらいなら僕がおごってあげるからさ。三宅さんに見立てて、これって奴を」
その言葉に、和樹と三宅はそろって「え?」と驚いた顔をした。
「乾さん……」
三宅は、どこか嬉しそうな顔をしている。三宅にウインクをしてみせ、乾は視線を和樹へと遣った。和樹はたくさんある花の前で、腕組みをして唸っている。
「うーん……いざ自分が選ぶとなると……あ、これなんてどう?」
そう言って、和樹は三宅に、白とピンクが交じり合ったような花を差し出した。それを見て、三宅は首を傾げる。
「え? これって、ツツジ……?」
「いや、これはツツジじゃなくて……同じツツジ科のシャクナゲだね」
乾の言葉に、和樹は頷いた。
「そう、乾さんの言う通り。これはツツジじゃなくて、シャクナゲ。花言葉は……威厳」
「へぇ、威厳。………………は?」
三宅が、怪訝な顔をした。その後では、乾が額に手を遣りため息をついている。それに気付かず、和樹は「どうだ」と言わんばかりに言った。
「だってさ、ほら。三宅さんって、なんか威厳あるじゃない? ゼミ生の中でも、特に威厳に満ち溢れてるよね?」
「……」
「……っ!」
乾が再びため息をつき。三宅の顔が一気に紅潮し。
次の瞬間、パーンという乾いた音が店内に響き渡った。
「最っ低!」
短く言い放つと、三宅は頭から湯気を出さんばかりの勢いでドアから出て行った。カランコロンという軽快なドアベルの音が空しく鳴り渡り、あとには乾と、顔に見事な紅葉マークを描かれた和樹だけが残された。
「……そう言えば、前にも同じような事があったような……」
言いながら、乾は同情する目で和樹の頬を眺めた。和樹と三宅、どちらに同情しているのかはわからない。……両方か。
和樹はしばらく呆け、そして気付いたように頬に手を遣り、「わけがわからない」という顔をして乾の顔を見た。
「……え? 乾さん、俺……今、何で引っ叩かれたんですか? ……え? え?」
おろおろとドアと乾を交互に見る和樹に、乾は三度ため息を吐く。
「……和樹君さぁ……もう少しデリカシーがあれば、モテそうなのになぁ……」
四度目のため息をつき、乾は「さて、仕事仕事……」と言いながらバックヤードへと入っていく。一人残された和樹は、いつまでも「え? え?」と閉まったドアを見詰めていた。
(了)
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