犬のゲージ

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 世の中には、仔犬の前で正座をしている人も時々いるのだろうけれど、その状態で仔犬に説教を受け、俯いたままボロボロと悔し涙をこぼしている女子中学生は、有史以来、私くらいのものではないかと思う。 「もういちどいうワン。  ージをージというやつは、なにをやってもだめだワン」 「ぶゎい、はい、ずびばぜん、うぅ……」  捨て犬なんて拾わなければ良かった、と思った。 「いま、きみ、ぼくをひろわなきゃよかった、とおもったワン?」 「えっ、な、なんで」  まさかこの犬、心が読めるの?  私はいよいよ恐ろしくなった。 「ほんとうにおもってたワン!?」 「ひっ、す、すみません!」 「きぶんでひろって、きぶんですてる!  むせきにんにも、ほどがあるワン!!」 「ごべんだざいぃ……」  事の起こりは、今日の中学校の帰り道だった。  道端で段ボールに入った捨て犬を見掛けて、可哀想になって拾って帰った。  その捨て犬が、今、私に説教をしているこいつだ。 「ケージをゲージというやつは、ドッグフードのぶんりょうどころか、それがこいぬようか、おとないぬようかも、よめないワン。  おいしゃでもらったおくすりも、ようほうようりょうをまもらないワン。  ドッグランのりようじょうのちゅういだってよめないワン。  それどころか、ドッグランをドックランといっちゃうワン」  仔犬は舌ったらずな口調で私を罵る。 「そ、そこまで酷くはないと思うけど……」  私が恐る恐る目線を上げると、 「ケージをゲージとよんでしまうやつが、まともに、にほんごを、よめるわけないワン!」 「ひゃっ、ご、ごべんだだっ、ごべんなざいー!」 「カゴはケージ、ゲージはちょうひっさつわざにつかうやつだワン!」 「お、仰る通りですぅ!」  それから仔犬のお説教はママが仕事から帰ってくるまで続いた。 「あら、ワンちゃん?  どうしたの、拾ってきたの?」 「ワン!」  仔犬はまるで普通の仔犬のように答えた。 「飼っても良いけど、ベッに入れるならお風呂の後ね」  そう言ったママは、怒れる仔犬に正座をさせられ、そのまま説教を受けることになった。 「ベッドをベットというやつは、なにをやってもだめだワン!」 「うぅぅ、ご、ごべんだざいぃ……」  私は解放されたけど、ママへのお説教はパパが仕事から帰ってくるまで続いた。 「何だ、仔犬か……ん?」  パパは仔犬を二度見した。 「やあ、ひさしぶりだワン!」 「……ま、まさか……チロキチさんですか?」 「おぼえていたようだワン」  パパは仔犬に愛想笑いをしながら、ママの隣に自分から正座した。 「パパ。この仔犬と知り合いなの?」 「ああ、パパが子どもの頃に飼っていた犬でな」 「えっ、だって仔犬だよ? 何年前の話?」  私はそう聞きながら、でも、普通の仔犬は人語を喋って説教したりはしないな、と思い直した。 「チロキチさんはな、お爺ちゃんが子どもの頃にも、ひいお婆ちゃんが子どもの頃にも、飼い犬として、飼い主の心得を教えてくださったんだよ」  なんのこっちゃ、とは思ったけど、どうにか口に出す前に飲み込んだ。 「そうかぁ、お前の所にも、チロキチさんが来てくださる歳になったのかぁ」 「そういうことだったのね……」  パパは何やら染々しているし、ママも何やら納得しているからだ。 「きみ、いま、ふにおちないと思ってるワン」 「えっ、なんでわかっ……あ!」 「ほんとうに、おもってたワン!!」  それからカップ麺だけの遅い夕食を食べて、チロキチさんには仔犬用に薄めたミルクをあげて。  そのままチロキチさんは、うちの飼い犬になった。  あれから20年ちょっと。  チロキチさんが亡くなってから10年か。 「ケージをゲージというやつはなにをやってもだめだワン!」 「ご、ごべんなざいぃぃ……」  仕事帰りの玄関先まで、甲高い吠え声と、涙混じりの息子の声が聞こえてきた。  思わず笑いがこぼれる。あの子ももう、そんな歳になったのか。  私はこっそり家の外に戻り、コンビニへ仔犬用のミルクを買いに行った。 <了>
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