お父さん軒

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 この春から、お父さんが定年退職して、家にずっといるようになった。 いや、単身赴任や別居をしていたわけではないから、家にいるのは当たり前なのだけれど、今まで朝は早く夜は遅く、休日は接待や趣味のゴルフに出かけていたりして、子どもの目から見ても家には睡眠の為にいるようなものだった。 だから家にお父さんがずっといるなんて正直なところあまり想像つかなかったし、現実となった今でも何だか不思議な感じだ。  前に、お父さんは日中何をしているのかとお母さんにこっそり聞いたところ、掃除機をかけたり、庭の手入れをしたり、テレビを見たりのんびりと過ごしているらしい。シルバー人材の求人を気にしたりはしているけれど、1日を自由に使える日がようやくきたとのことで、しばらくはこの生活を謳歌したいのだそうだ。 もちろん私もそれに異存はない。しかし私が会社から帰宅すると、当たり前にリビングにいる光景がまだ慣れないし、ほんの少しだけ戸惑ってしまう。というのも、お父さんが忙しかったあまり、今まで満足にコミュニケーションをとっていなかったからだ。誕生日の遊園地や食事、夏休みには家族旅行も行ったけれど、思春期に進むにつれそういう事も少なくなり、今では顔を合わせれば一言二言挨拶の言葉を交わす程度。  そんなわけで、父親なのにどう接していいのか悩む私は今日も今日とて帰りの足取りは何となく重い。 勤め先の市役所を出ると、外は春のぼんやりした生暖かさをまとっていて、草木のような青くさい薫りがした。敷地内にも当然桜の木は植えられていて、盛はだいぶ過ぎ今はちらちらと足元に淡色の花びらが広がっている。息を吸い込むと、その花びらが体に満ちて行くイメージが頭に浮かんだ。そんな事を感じながら職員駐車場まで歩く。 勤め先から自宅までは車で15分。混むような道じゃないだけに、毎日あっという間についてしまう。エンジンをかけるとラジオは天気予報を知らせていた。どうやらこの土日は雨らしい。今週はとくに出かける用事もないので、たまには本でも読んで家でのんびり過ごすそうと思い、ギアチェンジして車を発進させた。  走行し始めたはいいものの、やはりこのまま真っ直ぐ帰る気分になれない。きっと春の空気が怠惰な気分にさせているに違いない。気分転換に帰り道にあるツタヤにでも寄り道しようと思った。 平日の夕方だと比較的駐車場は空いており、入口に近いスペースに停めた。 エンジンを切り車外に出る前に何となくスマホをチェックすると、既に結婚し家を出ているお姉ちゃんからラインがきていた。メッセージには「今月末に1日だけ帰るかも」と入っている。 3つ年上のお姉ちゃんは今、遠方にある旦那さんの実家近くに住んでいる。 5歳になる娘の彩音も、新幹線で一緒に連れてくるんだろうかと思ってメッセージを返すとすぐに既読になり、返信が来た。 『帰るのは私だけー。高校の友達が結婚式するんでそれで1日だけ』 「彩音も連れてくればいいじゃん」 『旦那が彩音と義両親を連れてお出かけするんだって。だからいーの』 「遊園地とかってそっちにあったっけ?」 『ドライブがてら牧場と温泉行くって言ってた』 「いーなー」 『ってことで、美希、靴だけ貸して。サイズ一緒でしょ』 「いいよ。ドレスも貸そうか?」 『前より太っちゃったから多分入らない・・・・・・』 「どんまい。お姉ちゃん今ひま?電話していい?」 『ひまひまー。夕ご飯の準備終わって彩音はアニメに夢中だから』  お姉ちゃんの言葉にすぐ通話ボタンを押そうとしたら、先に向こうからかかってきたので着信に出る。すると相変わらず朗らかな声で「何なにー、どした」と少しだけ心配を含むように様子を訊ねてきたものだから私は「どうしたってことじゃないんだけど」と、申し訳ない気持ちになり笑った。 「ちょっと真っ直ぐ帰るには気が進まないなぁと何となく思って」 「何、お母さんとケンカでもした?」 「それはない。仲良くやってるよ。何せパラサイトシングルなもんで、家に居場所失ったら辛いわ」 「公務員の癖に何言ってんの。一人暮らしいくらでもできるじゃん」 「けど実家から職場まで15分とか、実家出てまでの理由がない」 「ま、そうっちゃそうだね。私があんたでもそうしてるな。で、どした」  私はその続きを、彼女も家族なだけに言っていいものか、しばし考えてしまう。けれど、時間が今はあると言ってもそうは長く話していられないだろう。それに、この事について後ほど改めて話すというものでもない気がしたので、思い切って打ち明ける事にした。 「お父さんのことでさ。ぶっちゃけ、退職して家にいる光景が未だに慣れないんだよね。で、何か妙に私がぎくしゃくしちゃって微妙」  するとお姉ちゃんは一瞬止まって、すぐにけらけらと笑いだした。 「あんた、そんなこと気にしてぎくしゃくしてんの」 「笑う気持ちは大いに分かるけど、今まで忙しくて滅多に顔合わさなかった人と何会話すればいいか分かんないんだもん。それにお父さんからもそんなに話しかけてこないし」 「話しかけてこないなら別に気にする事ないじゃん。話しかけれたら会話すればいいだけだし」 「そうなんだけど。会話しないのも妙に気を遣っちゃってさぁ」 「あーあ、うちの旦那も昇進とかして忙しくなったら、いつか彩音にもそういう風に思われちゃうのかなぁ」 「お姉ちゃんだったらどうなのよ。お父さん。あんまり家にいなかったじゃん」 「んー、離れて暮らしてるからあんまり孫バカにもなってないし、考えたら確かに淡々としすぎてる感はあるかも。何考えてるのか分からないみたいな」 「でしょー。それかお父さん、逆に私に気を遣いすぎてるのかな」 「私が結婚の事お父さんに話した時も淡々としてたしね。元々そういう性格なんじゃない。静かなる頑固一徹っていうか」 「あー、たしかに。分かりやすいそれ。そのかわりお母さんがおしゃべりだからバランスいいのかもしれないけど」 まるで家にいてすぐ傍で話しているみたいな和やかな雰囲気になったところで、彩音が「ねーママ、誰とお話してるの」と言うのが聞こえた。 お姉ちゃんは「美希ちゃんとだよ」と私の名前を出すと彩音は間髪いれずに、ひゃあ!とはしゃいだ声をあげた。そしてすぐに「彩音も美希ちゃんとお話したい!ママ代わって!」とおねだりをした。それがあまりにも女の子っぽくて可愛いかったのでこちらも自然と笑みがこぼれる。 彩音に代わる旨を一言告げられ、すぐに彩音が出た。勢いよく鼻息が聞こえたあたり、よほど嬉しくて興奮しているらしい。 「彩音、こんばんは。美希だよ。元気?」 「美希ちゃんこんばんは!元気だよ!美希ちゃんいつ遊びにくる?」  子供らしい直球な質問にちょっと考えながら、長いお休みがとれたら行くねと答えると、嬉しそうに声をあげた。その後は今日の幼稚園での出来事や、今度温泉に行く事を嬉々として話してくれた。 しばらくすると、まだ喋り足りなそうな彩音をうまく諌めて、再びお姉ちゃんが出た。 「ごめんねー、彩音、前よりお喋り力がグレードアップしたでしょ」 「あははは。びっくりした。女の子はお喋りな生き物だからねー」 「さっきの話に戻るけど、お父さんと何となくどう接していいか戸惑うのも分かるけど、あんまり邪険にしないであげなよ」 「邪険にはしてないってば。あー、早くお姉ちゃん帰ってこないかな。何かお母さんもお父さんが退職してからか、ずっと一緒にいると疲れるみたいでパート1日増やしたり、コーラスの習い事も始めたりしてお母さんのほうがよっぽど距離置いてるかも」 「あ、今それで熟年離婚増えてるらしいね」 「マジで?うちやばめ?」 「それは大丈夫じゃない?しばらくしたら落ちついて夫婦旅行でも行くって」 お姉ちゃんはそう言うと、何だか他人事のように面白そうに笑った。彩音が「ママ、おなかすいた」と言ったのが聞こえたので、私はお礼を言うと電話を切った。 散々思っていた事をお姉ちゃんに言い終えると、ただ家にいるというだけでその他はまったく人畜無害なお父さんが、さすがにちょっとだけ可哀想に思えてきた。 彩音が年頃になって自分の父親の事をそんな風に言ったら私だって邪険にしてあげないでと宥めるだろう。 嫌いというわけではないし、ただお父さんがどういう「人」であるのか分からなさすぎるんだけなんだ。 だからといってグイグイ聞くのも変だ。ますますどう接していいか分からない私は小さくため息をつく。 それにお母さんだってお父さんを邪険にしているのとは違うだろうし、子どもの目から見ても夫婦仲は良い方だとは思う。 けれどそれは距離を保っていたから成り立っていたのだとしたら。なんて考えるけれど、それでもお母さんはお父さんの事を悪く言うわけでもないので、お姉ちゃんの言うとおり、しばらくしたら夫婦水入らずで旅行くらい行くかもしれないと思った。  しかし数日後、旅行に行ったのは夫婦ではなく、お母さんだけだった。 私が土曜日の朝、といっても朝にはだいぶ遅い時間に階段を降りたら、いつもキッチンかリビングにいるお母さんの気配がなかった。 リビングにいるのはお父さんだけだ。新聞に目を通している。 いつもと違う事に気がついた私は、新聞を読んでいるお父さんにおはようと声をかけると、私に気がついたお父さんは顔あげ静かに挨拶をし返してくれた。 「お母さんは?買い物?」 「母さんは友達と旅行だそうだ。朝早く駅まで送って行った」 「そうなの?全然知らなかった」 「数日前に夕飯で母さん言ってたぞ」 私は本当に人の話を聞いていなかったらしい。 一人納得して、冷蔵庫からミネラルウォーターを出すとコップに注いだ。寝起きは喉が渇く。あっという間にコップは空になり、もう一杯おかわりした。少し眠さを引きずっていた頭が冴えてくる。 「一泊二日?どこ行くって言ってた?」 「岩手らしいぞ。明日の夕方に帰ってくるって」 「じゃあ明日は私がお母さん迎えに行くよ。何の予定も入れてないし」 「そうか」 お父さんはそう言って再び新聞に目を戻した。 ということは、明日お母さんが帰ってくるまで食事も二人きりってことだ。 作るのは苦じゃないけれど、かといってお父さんと二人で近くの居酒屋に水入らずで飲みに行くなんてものは想像つかなさすぎる。 二人で過ごす時間を想像してみた。今日は天気予報どおりに朝からしとしとと小雨が降っている。今日はこんな天気だから、いっそ映画にでも誘ってみる?頭でどうコミュニケーションを取るか考えていたところ「美希も起きたから掃除機でもかけるか」と新聞を畳んで立ち上ったので、思わず「あ、うん」と半端な返事しか出ず、とりあえず私も部屋を掃除しようと思って2階へと戻った。  掃除も洗濯も終わり、リビングでテレビをつけた時、さすがに小腹がすいたなと感じ始めると、「ラーメン、食べるか」と、お父さんがぽつりと喋った。 唐突の提案だったので一瞬戸惑いつつも、お腹がすいているのは確かなので異存はない。 「え?あ、うん。いいよ。どこ食べに行く?」 「食べに行くんじゃない。作るんだ」 「へっ?」 「俺が作るから、ちょっと待ってろ」 一瞬、お父さんが何を言っているのか信じられなかった。 お父さんがラーメンを作る?本当に作れんの?ラーメンなんか簡単だろうけれど、お父さんがキッチンに立つってことだよね?考える間もなくお父さんはキッチンへと向かう。 冷蔵庫を開けて、タッパーと瓶入りのピリ辛メンマにパック入りの麺、野菜室から青菜と葱を出す。 麺もサッポロ一番ではなく、いつの間に買っていたのかパックに入った生麺だ。 ラーメン用の器を出した後に、コンロにふたつ行平鍋を置いた。そのうちの一つには既に淡い黄金色のスープが入っているのを見て、思ったより本格的だったので驚いてしまう。 「お父さん、インスタントじゃないけどいいの?」 すると、お父さんが心外だなという表情をしたので、やばい、と思ったところ、 「こう見えても学生の時はラーメン屋でアルバイトしてたんだ」と、口にしながらシャツを腕まくりし手を洗った。 「そうなんだ」 「なんだ、信じられないって顔してるな」 「そんなこと・・・・・・ある、かも」  正直に言うと、お父さんがたまらずに笑った。 「まぁ待ってろ。意外とうまいもんだぞ。サラリーマンの時も夜食にたまに自分で作ってたしな」 「そうだったの?」 「母さんにもついでで作ってやってたし」 「えぇっ!?そりゃあお母さんも太るわけだわ・・・・・・」 「それ母さんに今度言ってみたらどうだ」 「むりむりむり!」 会話の合間にある、少し乾いたようなお父さんの笑い声に、何だか胸の奥がじんわりする。 お父さんは鍋の一つにたっぷりと水を張ると、もう一つの鍋と一緒に火にかけた。 次に青菜へと手を伸ばし、包丁で根元を落として十字に切り込みを入れて流水でよく洗う。青菜に切り込みを入れるついでに葱も刻んで小皿に分けた。その作業が思いのほかとても手際よく、内心びっくりする。恥ずかしいかな、私より手際が良いくらい。 「ねぇ、そのタッパーはチャーシュー?」 私は先ほどから気になっていた、塊肉の入っていそうなタッパーを指差した。 中には煮汁のようなものも入っているけれど、その割には色があっさりしている。鍋の一つに入っていたスープも同じ色をしていたなと思い出す。 お父さんは、これか、と言いながらタッパーを開けて見せた。茶色く火が通ったお肉が、たっぷりした煮汁と一緒に入っている。 「これは茹で塩豚だ」 「茹で塩豚・・・・・・」 「塩を馴染ませた豚肉を3日冷蔵庫に置いて茹でたものだ。一緒に入っているのは茹で汁だ。鍋の一つに昨日茹でた茹で汁をとっておいたんだ。ラーメンでも作ろうかと思ってな」  スープが入っていると思った鍋は茹で汁だったのか。私は塩豚を指して改めて訊く。 「それ、お父さんが作ったの?」 「ああ。世話になったラーメン屋がチャーシューの他に茹で塩豚も作っててな。この間、思い出して作ってみたんだ。ただ焼いてみても美味いし、ラーメンの他にチャーハンにも使えたりして結構便利だぞ」 「本当にお父さんが作ったんだよね」 「まだ信じられないのか。まぁ、とりあえず見てろ。こう見えても結構やるんだぞ」 何だかお父さんの声が心なしか弾んでいた。いつも淡々とした口調に、休みでたまに家にいる時はゴルフバッグの手入れをしたり、庭でスイングの練習をしたりしている姿が脳裏にずっとあっただけに、こんなふうに青年みたいに笑うお父さんを見るのは新鮮だった。何故かこそばゆい気持ちになる。 私がそんな風に思っている間にもお父さんは次々と作業を進める。 スープは温まるにつれて良い匂いを鼻に運んでくる。それには少しだけニンニクやショウガのスパイシーな香りが含まれている気がした。茹で汁というよりも立派な出汁の匂いだ。 茹で汁スープが煮たったら、醤油を小さじ1ほどと塩を一つまみ入れる。お玉でかき混ぜると湯気の下で黄金色がほんのり醤油色に染まった。 それをスプーンで味見すると確認するように軽く頷き、ごま油をほんの少したらした。その途端、元々のスープに加えてごま油の香りがキッチンに満ちた。キッチンだけでなく、カウンター越しにダイニングやリビングにまでほんのりと広がる。 ほんのちょっとの量なのにこんなにも香ばしい香りが広がるなんて、ごま油の偉大さを感じずにはいられない。 私も早くそのスープの味を確認したくて、気がつけば出てきたつばを思わず飲み込んでいた。 でもこれで終わりじゃないらしい。タッパーから豚肉をつかむと豪快にもぶ厚めに6枚スライスした。3枚ずつ食べられるのかとつい頭で計算してしまう。 塊の残りをタッパーに戻し、スライスした肉を一緒にスープに入れて少し温めると鍋の火を止めた。スープはもう完成なようだ。 するともう一つの鍋がちょうどいいタイミングで沸騰した。 私はお父さんの隣に行き、豚肉のタッパーの蓋を閉めて冷蔵庫に入れると、「ありがとな」とお父さんが言った。 私は「うん」と心なしか小さく言い頷く。 そのまま食卓の準備をしようと思った私は食器棚のカトラリ―の引き出しを開けて、レンゲと、迷ったけれど割り箸を出した。 普通のお箸でも良いのだけれど、ラーメン屋でバイトしていた話を聞いた今日は、何となく割りばしで食べたい気がした。それからお冷も用意しなければ。そう思った時に、お父さんから初めて指示が出た。 「美希、冷蔵庫の奥に茹で卵のパックがある。悪いが殻剥きしてくれないか」 私は「分かった」と返事をすると冷蔵庫を開けた。 言われたとおりに奥を見ると市販の4個入りの茹で卵のパックがあった。そこから2個を出し、シンクのヘリで、こん、と軽くお尻と叩くとヒビはたやすく入った。 そしてそのまま卵をヘリに滑らすように転がすと、バリバリバリという音とヒビが一気に周りに入る。ヒビの一つをつまんだら、面白いぐらいにペロンとすんなり殻が剥がれた。子供の頃から茹で卵の殻割りは大好きだ。このやり方を覚えてからはとくに。スムーズに取れるとものすごく気持ちが良い。 白くつるつるの玉子を縦に二等分すると、市販の割には真ん中の黄身がとろりとしていた。 適当な小皿に玉子を置いたところで、お父さんは沸騰した鍋に麺をほぐしながら入れ、青菜も一緒に入れた。 私は食卓へ戻ると、先ほど出した割り箸とレンゲをセットする。ついでにティッシュも置くとお父さんは「お、分かってるな。さすがだ」気がついた。 さすがだって、一体何のさすがなんだと私はちょっと笑いそうになる。私はカウンター越しにお父さんの作業を見守った。 お父さんは先に青菜だけざるに上げると流水で少しだけそれを冷やし、水気を絞ったあとざく切りにした。青菜は根元へいくほど爽やかな黄緑色をしていて、とても鮮やかだ。 そうして今度は麺を上げる準備にとりかかり、鍋のお湯と麺を一気にざるに落とす。どどっと湯の流れる音と同時に、大量の湯気でお父さんが見えなくなったら、熱湯でシンクが「ボッコン」と元気な音をたてた。 その後は慣れたように湯切りし、冷めないうちに手早く器に麺とスープを二等分し、青菜、塩豚、茹で卵、メンマをトッピングする。 最後の仕上げに刻んだ葱を散らし、上から黒コショウをガリガリと挽いた。 「できたぞ」 お父さんがお盆にラーメンの器を乗せて、食卓へとやってきた。私は慌ててコップに氷と水を注いで、一緒に食卓に着く。 ほんのり醤油色に染まったスープと卵色した麺から湯気が出ている。 3枚も乗った豚肉はぶ厚く、家ラーメンにしてはとても豪勢だ。ごま油が香るスープものすごく美味しそうだ。 「い、いただきます」 「いただきます。熱いから気をつけろ」 「うん」  手を合わせてから、レンゲでまずスープを一掬い。 飲むとあっさりしながらも醤油と豚の旨味と他にもニンニクやショウガの風味もきいて、最後には口の中でごま油の香りがしばらく佇んでいる。舌の奥にじんわりと広がるのは旨味なんだろうか。中華なのか和風なのか、どっちのジャンルに入るのか分からないけれどものすごく美味しい。 もう一口飲んだところで「スープ、うまいだろ。ニンニクとショウガの他に、昆布と酒も入れて茹でたからな」とお父さんが味の秘密を教えてくれた。 「すごく美味しい!本当に、本当のラーメン屋さんみたい」 思わず興奮気味に言うと、お父さんはちょっと笑ってから「麺、食べないと伸びるぞ」と勢いよく麺をすすった。それを聞いて私も麺に箸を伸ばす。 市販の生麺だけれどもちもちして美味しい。いつもは乾麺やインスタントだけれど、家ラーメンで生麺もいいなと思った。 きざみ葱も麺と一緒に絡んで口の中へ入る。このとがった青臭さも美味しい。青菜とメンマも口の中でそれぞれ違う食感が楽しめた。 とうとう待望の茹で塩豚に箸をのばす。黒コショウがかかってパンチがきいてそうだ。一口かじると、身がやさしくほぐれた。それでも噛むとしっかりとした歯ごたえに、肉に染み込んだ塩と豚肉のうまみが口の中に広がる。脂身の部分は甘く、食べた時の重たさが逆に隙っ腹に満足感を与えた。 「お前、美味そうに食べるな」  ふと言われたので、私は「そうかな?でも本当に美味しいよ」と返すと「作り甲斐があって良かったよ」とお父さんが微笑んだ。あ、またこの感じ、と思う。 お父さんが笑うと、何だか心が気恥かしいというか、胸の奥がこそばゆい。きっとこれは照れに違いないと気がついた私は、何となく悟られるのが嫌で茹で玉子を食べながら軽口を叩いてみた。 「お父さん、ラーメン屋になればいけたかもよ」  するとお父さんの箸が止まった。 お父さんを見る。そしたら、少し驚いた顔をして私を見ていた。 冗談のつもりで言ったのに、驚かせてしまっただろうかと焦ると、お父さんは我に返って「あ、すまん。驚いてな」と、スープを飲んだ。そして、何気ないように言った。 「母さんに最初作ってあげた料理も、実は茹で塩豚使ったラーメンだったんだ」 「……そうなの?」 今度は私が驚いた。だってお母さんからそんな話を聞いた事が無かったから。 初めてのデートは横浜の公園だったとか、お父さんと付き合ってから野球のナイターを初めて見たとか、そういう話しかされなかった。 なんだ、お喋りなお母さんも実は奥ゆかしいところあったんじゃない。するとお父さんはちょっとだけ照れくさそうにしながら続けた。 「母さんと出会う前は、実はラーメン屋になりたかったんだ」 「えぇっ!!」 「いや、なりたかったと言ってもちょっとだけ思っただけだから、きっと本気じゃなかったんだ。母さんに言った事もなかったしな。それでも、ラーメン屋の人生も悪くないなって思った事があった。今思えばそれだけアルバイト先に恵まれてたんだろうな」 茶化すには少しだけ真剣な話しぶりだったので、「そうだったんだ」と言葉少なに私は答えた。 お父さんの口から初めて語られる、『もしも』の未来に、私は何て答えてあげたらいいか戸惑ったからだ。 お父さんは気にせずに黙々と食べ続ける。そしてまた、一段落した頃にぽつりと口を開いた。 「もう夢の話だし、チャーシューだって、やれば今でも結構上手に作れると思うけれどレシピを思い出すにはとうの昔だ。やりたい事や青くさい夢なんかも世間知らずの学生だったから勿論あったけれど、仕事が嫌いなわけじゃなかった。結果、仕事が好きなタイプの人間だったしな。それに外回りがあれば都内のラーメン屋で好きなのを食べたし、そうやって仕事してこれて、とりあえず走りきれた事には満足してるんだ。お前たちも立派になったしな」  何でもないように、今までの自分の事を語るお父さんは、お父さんと言うよりも一個人の大人の人間という風に感じた。いや、お父さんだって一人の人なのだから、色んなバックグラウンドや思う事があるのは普通の事だ。私だってそうなように。 外の小雨の音と、室内の暖かな空気にラーメンを咀嚼する音、向き合いながらぽつりぽつりと交わす会話の声。糸を手繰り寄せるようにぎこちなく近づいていく私とお父さんだけの時間は、意外と居心地が良かった。 ふと箸をとめてそんな事を思っていると、お父さんはこれからの事を口にした。 「これから時間はいくらでもあるから、どう過ごすか検討しているけどな。男の料理教室なんてのも市で開催しているようだし、そういうのも面白そうだなとは思ってるよ」  まさかオチに男の料理教室開催の市政情報を聞くとは思わなくて、私はつい噴き出してしまった。 お父さんは「なんだ、変な事言ったか?」と聞いたので、慌てて否定する。 「変じゃないよ。ただ意外っていうか・・・・・・いや、市役所職員としては是非活用してもらいたいくらい」 「そうか?結構手際良いと思うからいけるかな」 「申し込みがなかなか埋まらないって同僚の子が言ってたから、申し込んでくれると嬉しいかも。っていうか、お父さんも市報のそういうコーナー見てくれてるんだね」 「そりゃあ見てるさ。娘の就職先だしな。去年あたりから紙面も変わったな。なんだか若者向けにくだけた感じになって面白い」 「たぶん、去年から市長が変わったからかも。それに合わせて広報誌もリニューアルになったから」 「たまに特集とかで表紙に出てるのは、あれは職員なのか?」 「職員の時もあるし、市民の方に協力してもらっている時もあるよ」 「そうか。じゃあそのうち男の料理教室特集なんかしたら表紙に出れるかもしれないな」 「あははは。そのチャンスはあるかも」 私は、すっかりお父さんと笑いあっていた。 なんだ、私っていったい今まで何に遠慮していたんだろう。 今まで知らなかったお父さんの一面を知って意外だと思う事ばかりなんて、もしかしたら自分の親子関係は子供時代を引きずったままだったのだろうか。 考えなくても私はもう大人なのに、どこかで『お父さん』という存在を子供の頃からのイメージだけで見てはいなかっただろうか。 今会話しているお父さんと私は、紛れもなく対等な『大人』であって、お父さんが家にいるという事はこれからいくらでも親子の時間が持てるし、大人同士の家族として関係を築けるという事なんだ。 そんな事にようやく気がついた私は、湯気はもう冷めてしまったけれどまだ温かな器に目を落とす。いつの間にか少なくなったラーメンはスープの底に静かに沈んでいる。体は食熱でぽかぽかと温かく、むしろ少し熱いくらいだ。 「我ながら結構いけるな」 お父さんが味変えに胡椒をササッと振りかけたのを見て、私もそうしようと思った。渡された胡椒を振りかけていると、少し照れを含んだようにお父さんが言った。 「なんか、たまにはいいもんだな。こういうのも。忙しくてずっと家にいなかったからな」 ずぞぞっ、とラーメンをすする潔い音。お父さんのラーメンの食べ方は、とてもきれいだと初めて気がついた。きっとこのお父さんの新しい発見は、まだまだ序の口にすぎないのだろう。 「ねぇお父さん・・・・・・たまにでいいからさ、我が家でお父さんラーメンやってよ」 私の提案に、お父さんはびっくりしたように目を丸くした。だけど、少しして目尻に柔らかな皺がくしゃっと寄る。目にした瞬間、はっきりと思い出した。それは家族みんなで出かけた時に、おいしいものを頬張っている私やお姉ちゃんに「美味いか?」と嬉しそうに聞いてきたときのお父さんの笑顔を。それと同じだったから、懐かしい気持ちになったんだ。そして私たち姉妹は、そんな時に見れるお父さんの笑顔が、実はすごく嬉しかったんだ。 「我が家限定のラーメン屋か。それも面白いな」 「少なくとも私が常連客になるからさ。お母さんも喜ぶよ」 「そうか?」 「うん、そうだよ」 「そうか」 お父さんはそう言って、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。気がつけば私も同じように顔がほころんでいた。小雨降る春の土曜日の家ラーメンは、なかなかに悪くない。 もう一口と啜ったスープは、胡椒を入れすぎてほんのちょっとだけ辛い。 舌にぴりりとした刺激が残るまま、私はお父さんの思い出の味である塩豚に思い切りかぶりついた。 (了)
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