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00.プロローグ
暗がりを照らす一条に足を踏み入れると、どうにもこうにも身体の奥底から、何かが溢れる感覚があって。
目前に立ったスタンドの先に括られた有線マイクをそっと、外して。
ナギサァ、と自分を呼ぶ声がする。それは声援であり、応援であり、自分を鼓舞する声。
「…………」
ステージを抜ける、人工の風と蒸気。
揺れる、白い長裾のワンピース。揺れる、濃い、セミロングの黒髪。
着こなすのは、少しだけぽちゃりとしたエゾタヌキの、自分。
どうしてこんな世界に足を踏み入れてしまったのだろうかと自問自答することも、偶にはある。けれど。
それはきっとありきたりな感覚だけれど。
そこに音楽があって。そこに立つ場所があって。
そこに、聴いてくれる誰かがいるから。
だから、見てくれはどうあれ歌うのだ。
煌く空を、揺れる渚を、さざめく凪を。
人差し指を闇へと突き出して、ナギサは叫ぶ。
「今日も!かっ飛ばして、行くぜーっ!」
憧れはたくさん。あの人みたいにもっと綺麗に歌いたい。
あの人みたいにもっと上手にパフォーマンスしたい。
あの人みたいに、あの人みたいに……。
そう思っていた時もあったけれど、最近はそうでもない。
自分は自分であると。俺は俺であると。そう、何となく気づくことができた。
そんな気がしていた。
***
……ぎさ。な、ぎ、さ。
「んう……」
なぎさぁ。
「んん……?もうちょっと……」
何かの気配。それは大きく黒い何か。
「しらふねェッ!もうちょっとじゃねえ!流石に起きろ!鼾は駄目だ!」
すぱあん、と後頭部に相応の痛み。何かを叩きつけられたか。
「あだあっ!」
視界はぼやけていたものの、急に鮮明に。緑色の板、薄茶の天板、見慣れた教室の風景。左斜め前に、数学教師の鷹橋が立っていた。
何故か彼の獲物はハリセンで、時折こうしたシチュエーションになると教育委員会と愛の鞭のスレスレラインのお仕置きをしてくる。当然ながら今回の場合は凪紗が居眠りどころか熟睡していたのであるから、誰がどう見ても、仕方のないことであっただろう。
「白船、最近居眠りが多いぞ?数学は嫌いか?」
「い、いえ、そんなことは……」
単純に『夜更かし』が多いだけですなんて言えなくて。
「じゃあ、試験では、いい点とれよな?」
一瞬にやりと鷹橋は笑んで、教室前方へと歩いていく。タイミングよく、放課のチャイムが鳴った。
「凪紗、ごめんー!起こすのちょっと遅かったぁ」
「べ、別にカナタが悪いわけじゃないし、俺が寝てるのが悪くて」
ふうぅ、とため息をつきながら凪紗はぽちゃりとした右手で、目と頬を拭った。
カナタ、とは隣の席の小さなシェパードの同級生。言い直すと、保育園時代から一緒の幼馴染、と言うべきか。
持ちつ持たれつの関係で、近頃ワケアリの凪紗のことを、よくサポートしてくれている。例えば先ほどのように、どうにかこうにか、居眠りする凪紗のことを起こしてくれようとするとか。
「凪紗、もう帰る?」
「んん?ああ、うん。カナタは?部活」
「今日休み!なんかたまには家でぼんやりするのもいいかなって。凪紗は?『アレ』?」
「ん?んん、まあ。でもまだ時間あるし。二十二時からだから、二十時くらいに入ればいいし」
「ふーん。売れっ子は違うねぇ、このこのお」
「売れっ子なんかじゃないって」
別に、そんなんじゃ。
白船凪紗のもうひとつの顔。それは――。
「おはようございまーす」
「おうナギサ、おはようさん」
「ナギっち、今日もおねむ?」
ええっと、と凪紗は言い淀んで。
「シンヤさん、ヤスタカさん、おはようございます」
軽く会釈をして、凪紗はバックステージの右隅左隅、と落ち着き無く見渡して。
「…………」
「緊張する?」
シンヤはパイプ椅子に腰掛けて、ギターのネックをクロスで撫でながら凪紗に言う。
如何にもバンドマンといった佇まいの、ストレートロングヘアー。彼は『ヒト』。すらりとした身体に手指。ずいぶん身なりに気を遣っているのだなあと凪紗は思っていた。
「ナギっち何か食べる?肉まんあるよ」
「ああいえ、家で食べてきたので」
「そっかあ。じゃあ俺ふたつ食べちゃお」
けらけらと笑う、ベリーショートのこの男、ヤスタカ。彼も『ヒト』。随分食いしん坊のくせに、体型はそれなり。確か、ジムに通って頑張っているとか何とか言っていたような覚えがあった。
「今日は、水色のトップスに黒いパンツ」
そして、ナギサ。少しぽちゃりとしたエゾタヌキ。ぱっとしない外見に、おどおどした性格。
そんな彼が見せるもうひとつの顔は。
夜な夜なライブハウスを渡り歩く、ハピ☆ラキのヴォーカリスト。
ムームーという、流行のソーシャルネットワークサービスがある。
短文のメッセージを投稿したり、写真や動画をアップロードしたりして、他者……ひいては全世界向けに情報を発信することができる。リアルタイム性と手軽さが魅力で、企業や自治体もプロモーション等に精力的に活用を模索している、といったバックグラウンドを持つ、使用用途は人それぞれの、七色のコミュニケーションツールである。
このツールを用いてたまたま交流し、そしてひょんな事から縁を結んだ三人。そんな彼らの小さな物語。
なぎさ揺らめく藍色の。
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続くかもしれない。
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