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健太がタクシーで自宅に辿り着いた時はすでに午前三時を回っていた。高円寺駅前の1K、家賃七万円のマンション。六年前に田舎から上京してきた時からずっと住んでいる。今の健太の収入を考えればもっといいところに住めたが特にそんな願望はなかった。特に愛着があるわけでもない。風呂があって寝られればいい。
途中で買ったコンビニの袋を揺らしながら階段を昇る。アスファルトの床と健太の履いたスニーカーの靴底が奏でる「キュッキュッ」と擦れる音だけが廊下に響き渡る。
鍵を開け、部屋に入ると奥の部屋から灯りが漏れていた。靴を脱ぐのと同時に麻由美が姿を見せる。
「おかえり。寝むれないから起きてた」
麻由美の問い掛けに軽く頷き、健太は部屋に上がりコンビニの袋ごと体をベットの上に放り投げた。健太に寄り添うように麻由美が体を重ねる。
「今日、野球だったんでしょ。どうだった?」
「勝ったよ」
健太は顔をベットに押し付けたまま言った。
川上麻由美は健太の同棲している彼女で付き合ってもう五年になる。健太がフリーター時代に同じ職場で知り合い、一緒に住むようになったのも付き合ってすぐだった。健太より一つ年下で、専門学校を卒業してそのまま歯科衛生士として歯医者に勤めていた。健太の昼の顔と夜の顔の両方を知っている堅気の人間は彼女一人だけだった。もちろん最初は健太の仕事に反対をしていたが、すぐにそのことについては何も言わなくなった。
「どうだった?活躍した?」
「普通」
健太はそう言って起き上がりコンビニ袋から弁当とビールを取り出す。そっけない返事はいつものことだった。
「もお、せっかく起きてたんだから何か喋ってよ」
「別に起きてろと頼んだわけじゃない」
「はあ、じゃあ、健ちゃんは疲れて帰ってきて私がグァーグァーいびき掻きながら、お尻ぽりぽり掻いてる方がいいって言うわけ? 愛がないねえ」
麻由美が身振りを交えながらまくしたてるが、健太は相手にせず弁当を食べながらテレビのチャンネルを変える。毎日録画してあるプロ野球ニュース。二時間以上のゲームを十分ほどでまとめてしまうのは物足りなさを感じていたがそれでも黙って解説者の言葉を聞きながらプロのプレーを見た。
「本当好きねえ」
真由美が皮肉っぽく言うが返事はしない。
健太は昔から麻由美にこうした態度を取っていたわけではない。もっと恋人らしい時間を過ごしてきた頃もあった。しかし今の仕事に就いたときから今までとは違った視点で麻由美のことを見るようになっていた。それは善しにつけ悪しきにつけ欲望をさらけだしている店の女たちと毎日接しているうちに染み付いた感覚である。それにより麻由美のいいところも悪いところもはっきりと浮き彫りになって見えた。それは彼女の裏表のない部分であったり、損得を抜きにした優しさだったりと様々だった。麻由美のような女は現実を知らなさすぎる。利用されても文句は言えない。ただ、彼女の存在は健太の心のどこかを白くした。全てが黒に染まることをかろうじて止める存在であった。
健太は麻由美に常にあることだけ言っていた。
「俺からの電話には必ず出ろ。仕事中だろうといかなる時でも。そして必ず携帯の電波の入る場所に必ずいろ。勤務中なら店の固定番号にかけるからな」
健太は風俗店の店長である。つまり逮捕要員である。逮捕された時、電話は裁判所から一度だけかけることを許されている。一度だけ。一人だけ。もし相手がその電話に出なかったり、その相手の携帯につながらなかったらそこで終わる。オーナーにはもちろん電話など出来ない。最悪の事態の場合は麻由美に電話をする。
「パクられた。どこの留置所にいるから面会に来てくれ」
そう伝えることが出来ればあとはなんとでも出来る。もちろん麻由美にもその覚悟は常にあったし、その経験もしていた。
「明日も仕事だからもう寝るね」
麻由美を養うぐらいの収入は健太には十分あった。それでも麻由美は仕事を続ける選択をした。つまり、そういう女だ。
健太には基本的に拘束時間などない。店に行こうが遊んでいようが何をしても許されている。数字さえだせば。それでも健太は毎日店に行き、先頭に立って店を引っ張る。のんびりした休日など必要なかった。
夜明けの近い時間。硬式の野球ボールを右手でいろんな握り方をしながら頭の中を空っぽにする。ストレート、カーブ、スライダー、シンカー、シュート、パーム、フォーク、ナックル。野球ボールひとつあればいつまでも飽きない。手の平でボールをくるくる回転させて逆Cの握り、野手の基本となる握りに瞬時に握り替える動作を繰り返し、ボールを真上に投げて右手で捕り、素早く握り替えることを繰り返した。早朝六時頃、ようやく健太は眠りにつく。枕元に携帯を置き、いつでも動ける準備だけはしておく。
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