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2000年春。
東京。
暖かい日差しの日曜の午前、区営の草野球グラウンド。打者の打ったボールが健太の守るショートに転がる。
「ショート!」
周りの選手からの掛け声の中、三遊間の深い位置でボールを捌く。外野の芝生の切れ目、ほぼレフトの前からノーステップで一塁に糸を引くようなボール。ファーストはただ伸びてグラブを出すだけ。
「ナイスショート!」
高校野球経験者の高木健太にとってはなんでもないプレーだが普通のゴロもアウトにならない草野球では確かにナイスプレーだ。名前を出せば誰しもが知る名門高校野球部出身。高校時代にレギュラーになれなかった健太にとって、試合に出てプレーすることは気分もよかった。
「魅せるねえ」
サードを守る山田さんが声を掛けてくる。照れくさそうに微笑みながら健太は軽く頭を下げる。
健太の所属する草野球チーム、ハロゲンズは強くもなく弱くもなかった。健太はハロゲンズに五年前に入団した。入団当初はいろいろあったが、田舎から上京してきた健太にとってこのチームのチームメイトは大半が年上で気のおける存在でもあった。部員は地区のタウン情報誌で募集する為、チームメイトは年齢も職業もばらばらだったが共通していたことは、みんな野球に対してすごく真面目だと言うこと。年下である健太に皆がたくさんのアドバイスを求め、健太はそれに対してひとつひとつ丁寧に分かりやすく助言した。
「いやあ、今日は高木君のおかげで勝てたね」
錦さんがバットをしまいながら言った。
「錦のせいで負けそうになったけどな」
堀さんがからかい一同が錦さんを責める。野球を始めて半年の中年なら仕方がない。試合後、着替えながらチームメイトで試合を振り返る。健太は試合中の圧倒的な存在感と違って自分からは会話の中心には加わらない。みんなに合わせてただ作り笑いをするだけだ。たまに話を振られても愛想笑いとぼそぼそと発せられる曖昧な返事で濁した。チームメイトももう慣れていた。
「じゃあこの続きはいつもの『越後屋』でやりましょう」
チームのオーナーであり最年長の西野さんがみんなを促す。チーム行きつけの昼間から営業している居酒屋。
「高木君はどうする」
いつもの問い掛け。西野さんの優しさ。
「すいません。この後バイトですので」
いつもの答え。健太は試合後の飲み会には参加しなかった。
「このやろう。いつかつぶれるまで飲ましてやるからな」
西野さんがずるそうに笑いながら言った。
「すいません。次はなんとか時間を調整しますから」
健太はそう言ってチームメイトに別れを告げる。
「お疲れ」
「えー、帰るの」
「デートか?」
皆が口々に健太を見送る。それぞれに軽く会釈をして健太はグラウンドを背にする。
楽しい時間が終わってしまった時の独特の空白感を心に感じながら健太は一人、目的の場所を目指した。
「店長、また野球行ってたの?」
半裸に近い格好の女が健太に声を掛ける。
「ヨーコさん。受付には入らないように何度も言ってるでしょう。部屋に戻ってください。原、本数は?」
「これです。中田さん」
原が日計表を健太に手渡す。見えないように白紙の用紙を上に被せた日計表を受け取った健太は紙をめくって本数を確認する。二十三本。中田一郎。健太の偽名。
「チケットの割引はいくらで出してんだ?」
「いつものやつです」
「ヨーコさん、部屋に戻ってください。聞こえないんですか」
「聞こえてるわよ。なによ、店長。分かった。エラーしたんだ」
「原」
健太は原に向かってあごで合図する。原が立ち上がろうとした瞬間、ヨーコは諦めた捨て台詞とともに受付裏の部屋に戻っていく。
「受付に女は入れるなと言ってるだろ。客に見られたらどうするんだ」
「すいません」
原がオールバックで決めた頭を下げる。
池袋のイメクラ、パンナコッタ。健太はその店の店長を務める。この店で働き始めて三年。この業界の出世は早く、健太は二年目で店長の座を奪い取った。実際、風俗激戦区の池袋において健太の切り盛りするパンナコッタは勝ち組であった。駅東口徒歩五分。雑居ビルの三階にあるこの店は部屋数六部屋、シャワー二機、この手の店としては中型店より少し小さいくらいだが入客数はアベレージで一日四十本を割らなかった。基本的に部屋数がものをいう商売なので健太の理想は部屋数が十は欲しいところだったが、今の物件の坪数では現状が精一杯だった。それでも健太は店長に就任してから店のコンセプトを一変させ、劇的に数字を上げた。在籍女性のレベルの向上、雑誌による知名度アップ、講習の徹底によりサービス向上、日替わり割引サービスや時間帯割引のサービスなど方法はいろいろあるが「客がやりたいことは何か」それに応えるコンセプトをしっかりと打ち出せば数字は必ず上がる。新しいことをやっていく。この業界では極端に店のシステムを真似されるようなことはない。前任の無能さも手伝って店の売り上げは劇的に伸びた。それと同時に給料も固定給プラス歩合制のため、普通の二十五歳では手に入らないような月給が貰えた。以前のフリーター時代の五倍以上の月給。人もうらやむ大金だ。
「今日この後、面接入ってたよな」
「はい。三時からで求人誌ですね」
「何番が空いてる? 」
「えーと、六番が空いてます」
女の出勤表を見ながら原が答える。原辰則。これも偽名だった。風俗業界の人間で本名を名乗る人間はいない。
「じゃあ六番でいるから女が来たら通してくれ」
「分かりました」
原の返事を背に健太は六号室へ向かった。原の年齢は詳しくは知らなかったが健太よりもかなり年上であることは知っていた。本名は知らない。またこの店ではかなりの古株であることも。
昼間の知人は誰も知らない健太の裏の顔。池袋のイメクラの敏腕店長。
昼間の知人が知る健太の表の顔。ハロゲンズの主力選手で引っ込み思案なフリーター。
どちらが本当の自分なのか健太には分からなかった。
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