人魚姫の恋人

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 海を見ただけで暗い気持ちになっていく私をよそに、設楽さんは海を見ながら話し始めた。 「あれは僕が高校三年生の時、大学受験を控えた夏休みでした。気分転換でもしようと海を見に行った僕は、数人の男にナンパをされて困っていた女性を助けました。それがこの海でした。それが縁で、彼女と付き合うようになりました。彼女はとても美しかったのですが……」  そこまで言って、設楽さんはジッと海を見つめた。私に元カノの話をするなんて、どういうつもりなんだろうと怪訝に思っていると彼は続けた。 「僕は彼女に振り回されて、その年も翌年も大学受験に失敗しました。それでもなんとか就職をして……彼女とはずるずると付き合っていました。彼女といると楽しかったものですから」  私達は大学生なのに、就職したなんて。彼は何の話をしているのだろうか。頭の中では疑問符がいくつも浮かんだが、黙っていた。  彼は一呼吸おいて、また話を続けた。 「彼女は既婚者だったんです。僕にずっとそれを隠していました。ずっと気づかなかった僕は本当に間抜けだと思います。彼女はあの日、僕に『友達と海に行くけど絶対に来ちゃいけない』って言ったんです。『絶対にしてはいけない』って言われたら、そうしてしまうのが人間でしょう。彼女は分かっていたんです。僕がこの海に来るのを。そして、僕たちの関係を終わりにしたかった」 「はぁ」  私は間の抜けた返事をした。設楽さんが何を言いたいのか全く理解できなかった。人妻との不倫を聞かされて何と答えたらいいのか。困った顔で黙っていると、彼は申し訳なさそうな顔をして続けた。 「彼女と別れてから、僕は何度か一人でこの海に来たんです。きっともう二度と誰も愛するなんて出来ないだろうと、この海を見ながら思っていたものです。でも貴女に出会った。僕は貴女に言えなかったことがあるんです」  設楽さんは私を見つめた。男の人に見つめられたことなんてないので、それだけで緊張してしまった。 「彼女に振り回されて、気が付けばこんな年になっていました。それでもやっと大学に入って、少しでも若く見せようといろいろ努力しています」  彼はポケットからパスケースを取り出した。スカイブルーのパスケースを開くと免許証が入っていた。彼はそっと差しだして私に見せる。  私は訝し気に免許証を見た。氏名、住所……そして右上にある生年月日欄を見て、思わず息を飲んだ。彼の年齢は私よりも10歳上だった。 「驚きましたか。僕は現在、三十歳です。確かにあの大学に在籍していますが、夜間部の学生なんです。どうしても大学の夢は諦めきれなくて、仕事が終わってから大学で講義を受けていたんです。夜間部の学生でも昼間の講義を受けることができるんですよ。仕事が空いた時には大学に行って、講義を受けていました。そこで貴女に会ったんです」  でも……と彼は続けた。 「がむしゃらに働いたおかげで、仕事の方は何とかうまくやっていますよ」  そう言って彼は名刺を差し出した。 『株式会社 SHITARA 代表取締役社長 設楽 舞朗(したら まうろう)』  受け取った名刺にはそう書かれていた。  代表取締役社長……私はなんて言ったらいいか分からなかった。色々なことを一度に詰め込まれた私の頭はほぼパニックになっていた。  彼は確かに大学生だけど、同級生ではなく年齢は三十歳。さきほど乗せてもらった高級外車は、両親の物ではなくて彼自身の物。そして彼は代表取締役社長。 「あの……マウロウさんって珍しいお名前ですね」  かろうじて言えたのはそんなセリフだった。 「母が日本舞踊の師範をしていまして。その縁でつけられました。子供の頃は『マイちゃん』とか言われて嫌だったなぁ」  彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。 「素敵なお名前です」  そう言って微笑むと、彼は急に真面目な顔つきになった。 「初めて見た時から、貴女がとても気になっていました。レポートの事も知っています。貴女にレポートを借りた彼女が、他の友達に話していたのを聞いたんです。『あの子ならレポートをパクっても何も言わないだろう』って。はじめは気が弱いだけの人かと思っていました。でもそうじゃない。あなたは本当に優しい人なんですね。誰かが幸せになるのなら、少しくらい自分が損をしてもいいと心から思っている人だ。でも僕はこんなに年上だ。本当のことを言ったらきっと嫌われるかもしれない。それでもこの海でどうしても真実を告げたかったんです。あの時、僕の中で時が止まったこの場所で」 『僕の中の時が止まったこの場所』と彼は言った。  時が止まった場所。その言葉に胸が熱くなった。 「それは私も同じです。私も貴方と同じこの場所で時が止まったんです」 「え?」  彼は不思議そうな顔をした。 「私も昔、この海で辛い出来事があったんです。あれから、何事にも期待するのはやめようと思っていたんです。でも、貴方に会えて、もう一度、これからの自分を信じてみたいと思いました。こんな私で良ければよろしくお願いします。ここから二人で止まってしまった時を動かしましょう」  私は頭を下げた。  そしてもう一度名刺を見た。彼の名前をひらがなにして、頭の中で入れ替えて、クスリと笑った。
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