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「何回呼びかけても無駄やって、松田」
そんな自分の気持ちをよくわかっているだろう、先輩職員の小久保は。されど無情に言葉を紡いだ。
「他の奴らも入れ替わり立ち代り来てるけど、応答してくれたの半年くらい前が最後なんやて。しかも、中から滅茶苦茶怒鳴られたパターン。玄関からゴミ投げられたいう職員もおる。それ以降は完全に梨の礫、返事ない方が幸せかもしれんで」
「ええ、それじゃあ……」
「諦めた方がええって。さっさと腹括って中入るしかないやん。俺だってこんな汚い中入るの嫌でたまらんけどさあ」
ちなみに、市役所の職員といっても、自分も彼もこの県が地元ではなかったりする。元々東京住みだった松田と、大阪に住んでいたという小久保。現在こちらに来ているのは、どちらも子供の頃や学生時代に移り住んだからというのが最大の理由だった。
松田は呆然とした気持ちで、今にも朽ち果てそうな屋敷を見上げる。わかっていたが、やるしかないのか。何でよりにもよって自分なんだと思わずにはいられれない。公務員になれば九時五時で仕事ができて、楽に家族を養える――なんて夢を見ていた過去の自分を殴りたいほどだ。楽な仕事など一つもない、みんな必ずどこかで苦労してるんだよ――子供の頃、おばあちゃんはあれだけ忠告してくれていたのに自分と来たら。
「うう……失礼しまーす……」
汚い中、なんて小声とはいえはっきり小久保が言ったのは。声が聞こえる範囲に家主がいないと判断したというのもあるだろう。実際、呼んでも叫んでも出てこないし声も聞こえなかったのだから。
恐る恐る、唯一ゴミの少ない玄関口に近づく松田。鍵がかかっていたらどうしようもない、諦める理由になる――なんて淡い希望は一気に打ち砕かれた。ドアはノブを回すとあっさり開いたからだ。瞬間、中からごろごろとゴミ袋が転がり出してきて慌てて避けるハメになる。
「ひゃああ!」
「自分此処に務めて何年やの?めっちゃ情けないんとちゃう?」
「三年ですけどこんな酷いの始めてなんです!そして今はツッコミ返す気力ないんで勘弁してください!」
一応、緊張を少しでも和らげてくれようとしているかもしれない小久保。しかし、しれっと自分の後ろに下がったおじさん職員を、恨めしい気持ちで睨んでしまうのは許して欲しい。そもそも、普通ここは先輩が先導して歩くのが筋ではないのか。何でさりげなく自分を盾替わりにして歩こうとしているのか。
もわ、と漂ってくるのは鼻がひん曲がりそうな悪臭だ。こんなところで生活できる人の気がしれない。松田はあまり息を吸わないように気をつけながら、中を覗き込んだ。足の踏み場を探すだけで一苦労といった状態だが、先ほど入口を塞いでいたゴミが崩れたことでかろうじて歩くスペースは確保されたようだ。何がなんでも中に入れ、と何者かに命令されているような気がしないでもない。それが神様の類だというのなら、裁判で訴えたいほどである。いや、これでご飯を食っている身分であるのは事実だけれど。
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