ふたりの夫、ふたつの生活。あったかもしれない、もう一つの人生

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 車は高架橋を渡って、駅の南口にあるロータリーへ。祐子はいつも電車が到着するまで、車内でFMラジオを聞いていた。この時間は、懐かしの洋楽リクエスト番組が放送されている。祐子は普段、洋楽など興味がなかったが、薄暗い車の中、ガラス窓から儚く差し込む街路灯、そして、雰囲気の良い洋楽が、非日常の世界へといざなってくれた。この日はシックス・ペンス・ノン・ザ・リッチャーの「キス・ミ―」が流れていた。囁くような女性ボーカルで、スウィートかつポジティブな曲調......。懐かしい。  この時、祐子の中で痛くて、甘い、あの夜が呼び起こされる。    *     *    *  人類が滅亡すると、ノストラダムスによって予言された1999年、東京・足立区にある中規模病院――。  祐子は春に都内の大学を卒業し、その病院で栄養士として働き始めた。すると、先輩栄養士から毎日のようにお小言を食らい、これでもかってくらい仕事を押しつけられる。いわゆる、彼女はお局様だった。新人が成長すれば、自分がリストラされるかもしれない。新人のうちに芽を摘んでやろうと、潰しにかかっていたのだ。それでも、祐子は志高く持ち、ただでさえ美味しくない病院食を患者たちに少しでも喜んでもらおうと、寝る間も惜しんで献立を作成した。減塩食でも低予算の食材でも、少し手間をかけるだけで、美味しくできる。だしを効かせて食材の旨味を引き出したり、旬の食材を使って、季節感を出したり。おかげで患者からの評判は上々。ところが、先輩栄養士の機嫌は益々、悪くなる。現場の調理師たちも彼女の入れ知恵で態度を翻し、非協力的になった。手間がかかる作業は誰もやりたがらず、栄養士の祐子が早くに出勤して、一人で行わなければならなくなる始末。また、事務長からは、大幅な予算削減を迫られる。「ただでさえ、ギリギリの予算でやっているんです。これ以上の削減は無理です」と、祐子は必死で事務長に訴えるものの、先輩栄養士はあっさりそれを受け入れてしまう。現場と病院上層部、そして、患者の間に入って、神経が磨り減るばかりの日々。おかげで毎朝、お腹を壊して、お肌はボロボロ。十円ハゲもできた。仕事を辞めて長野の実家に帰ろうと思ったこともあったけれど、父が子連れの女性と再婚して、彼女の居場所は最早、そこにはなかった。
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